■ガイア教の天使クジラ29
前回に続き『イルカと話す日』を読み進めよう。今回はいよいよ我々がリリー博士から学ばなければならないことの核心に迫っていく。
ここで現在、人間が論争しているクジラとイルカに関する二通りの考え方を比べてみたい。
最初の考え方は十九世紀の生物学から生まれたものだが、これは脳の構造と脳のはたらきについて多くの発見がなされる前の考え方である。脳の重さや体重が測定され、体長が測られ、クジラ類(そして陸生の哺乳類)の脳の重さや体重、体長からさまざまな計算が行なわれる。(中略)特定の動物においては脳のサイズが大きくなるにつれ、単純に比例して体のサイズも大きくなることが明らかになった。
しかし、このプロット作業には、妥当性の証明されていない単純な仮定が紛れ込んでいる。つまり大きな体は大きな脳を必要とするという仮定である。したがって、脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではないのである。実際には、地球の進化の過程において、なぜ大きな脳を持つ、大きな体の生物が生き残り、なぜ大きな脳を持つ、小さな体の生物が生き残らなかったかという点が問われたことはなかった。現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。
このあたりだけ見ると、実にまともなことを言っているように聞こえる。「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」? うん、それはそうだ。現代でも通用する立派な考え方だ。たとえばネアンデルタール人の脳は現生人類よりもかなり大きかったことがわかっているが、ネアンデルタール人たちがみんなフォン・ノイマンより頭がよかったかというと、そういうわけでもなさそうである。
ただし「大きな体は大きな脳を必要とするという仮定」は、結論から言うと正しかった。今日から振り返って見ると当たり前に思える。どんな動物でも脳の大部分は全身の維持管理という、言わば日常業務に使われているのだから。*1
そんなことは別にこの時代にも予想のできないことではなかったはずであるが、リリー博士は「現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。」ことがこの仮定を支持するとは考えなかった。おそらく「クジラの脳が大きいのは体が大きいからだ(駄洒落にあらず)」という結論になってしまうのは面白くなかったからだろう。これに代わってリリー博士が注目したのは“回転力”*2だった。
二十世紀になってようやくわれわれは、脳の構造の、それも大型の脳の構造の、信じられないほどの精妙さと脆さとを理解するようになった。(中略)第二次世界大戦中、頭蓋に強度の回転力が加えられると、それが原因となって脳が損傷を受けることがわかった。(中略)これらの点を考察すれば、小型の身体と計量の頭蓋とに包まれた大型の脳は、大変傷つきやすく、重力と身体の動きから生まれる回転力とにさらされている地球上ではいずれ淘汰されてしまうということが明らかになる。(中略)イルカは泳ぐ場合も、泳ぐ方向を変えたり体の向きを変える場合も、動きが素早く、加速も速い。それに対して大型のクジラは動きが緩慢で悠々としている。(中略)クジラ類に関するこうした問題にニュートンの回転力学を応用することは、他の知識に比べて立ち遅れている。
脳研究にもっとニュートン力学を応用すべし!(爆)
さすがにこれは当時の基準をもってしてもあまりまともとは言えないであろうが、ここで実感してほしいのはリリー博士のトンデモなさではない*3。ここ半世紀の脳科学・神経科学の途方もない進歩によって、我々の常識はすでに半世紀前のそれとかけ離れたものになってしまっているということだ。
それにしてもですよ、いくら常識が現在とは違うとはいっても、なんぼ何でも不思議とは思いませんか? いったいどうして彼らはこんなに苦心してまでイルカ・クジラの知能を高いと見積もる理屈を探さなきゃいけなかったんでしょう?
犬が三頭並んで犬ぞりを引っ張っても「おお、このような協調には緻密なコミュニケーションが不可欠だ! 犬は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて思わないのに、どうしてイルカが三頭並んで泳ぐとそう思ってしまうのだろう?
鳥がどんなに精妙なダンスを踊り、美しい歌を歌っても「おお、なんと優雅で美しい! 鳥は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて絶対に思いやしないのに、どうしてイルカの跳躍やクジラの歌には人間以上の知恵を見て取らなければならなかったのだろう?
不思議だと思うでしょう? しかしね、いくら宇宙が果てしなく複雑だとはいっても、今の世の中、素人が簡単に手を出せるようなところにそうそう不思議なんて残ってはいないんですよ。彼らにはもちろん必要があったんです。それも切実な必要が。
"Seeing is Believing" (百聞は一見に如かず)と言いますが、私はそれをあなたに一目で信じさせることができる写真を目の前にしてます。御託はいいから早く見せろって? すみません、ここはシリーズ通してもハイライトシーンの一つなのでちょっともったいつけてるだけです。今すぐお見せします。覚悟はいいですか?
海に棲むクジラ類の脳の大きさは、類人猿程度のものから人間の六倍もあるもの(マッコウクジラの脳)まで実に豊富な種類がある。イルカや歯クジラの仲間は種類が多いが(五二種類)、彼らの脳の大きさはサル程度のものもあれば、人間と同じ大きさのもの、さらには人間の脳の四倍から六倍の大きさに達するものまである。
(中略)
ピーター・J・モーガン博士、ポール・ヤコブレフ博士、サム・ジェイコブズ博士による入念な研究が明らかにしてみせたのは、大型のクジラ類の脳で発達しているのはマクロコンピュータの部分、つまり沈黙・連合皮質に限られるということだった。最も大型の脳を持つクジラ類の場合、他の動物の脳よりも体積の増えているのは、マクロコンピュータの部分だけなのである。ミニコンピュータは、より小型のクジラ類のミニコンピュータと変わらない。また神経細胞と神経組織の構成は基本的には人間と同じである。
したがって、ヒトと同じ大きさの脳を持つクジラ類はヒトと同じ思考力を持っていると考えられ、またヒトよりも大きな脳を持つクジラ類は、ヒトの能力以上に遠い過去にさかのぽって物を推し量ったり、はるかな未来に向けて思考をめぐらすことができると思われるのである。
おいおい「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」んじゃなかったのかよ!? ……なんてところに突っ込めと言っているわけではもちろんありませんよ。
第22回の脳の図を憶えておくよう言いましたが、あなたには見えますか、第二の存在の大いなる連鎖が第三のそれにバトンタッチした瞬間が。たとえほんのダイジェストといえどもグールド師の講義を受けたからには、この写真が真理に基づく単なる事実の客観的な提示などではなく、彼らの考える「あるべき」宇宙秩序の縮図であるということを、わからないとは言わせませんぞ。
とにかくここは極めて重要なポイントなので、この写真を穴の開くほど見つめながら、次回ももうしばらく考察を進めよう。ちなみにマクロコンピュータとかミニコンピュータって何? というのは例によって私に聞かないでくれ。私に言えるのは、脳をバイオコンピュータと呼ぶのが格好いいことだった時代があったということと、残念ながら後の科学はこのような見方を支持しなかったということぐらいだ。(つづく)
*1:この件については、この時代以降の科学の発展を概観する時にもう一度詳しく取り上げる予定だ。
*2:スティール・ボール・ランでもグレンラガンでもあらず!
*3:そんなことはもうわかっているだろうし、この発想自体は、LSDを使用したり、塩水タンクに浮かんで瞑想しようとしたりすることに比べればそこまで非科学的とは言えない。
おまけ
懐かしき世界。
■ガイア教の天使クジラ28
『イルカと話す日』を読み進める前に、ちょっと補足しておかなければならないことがある。私はリリー博士のことを「ガイア教史上最重要人物」と呼んでいる。私はそれが適切な表現であると思っているし、今後も変わらない。
ただしそれが「彼がいなければガイア教は生まれなかっただろう。」とか「彼がいなければ反捕鯨運動などなかっただろう。」というような意味に受け取られているなら、私の意図に反する。ここまででもすでにある程度は理解してもらっているはずだと思うが、私がシリーズ全体を通して伝えたいのはまったく逆のことである。
ガイア教は一般的な日本人にはいくら奇妙奇天烈に見えても、本当は少しも突飛なことでも不思議なことでもない。それどころか極めて自然で当たり前で必然的な現象であって、特定の誰かが「原因」だとか「元凶」だとかいうような考え方はまったく必要ないどころか、むしろ有害であるということを言っているのである。
違う分野でたとえるなら、もし手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに何の異論もない人でも「手塚治虫ただ一人がこの世に産まれなかったら現代日本のサブカルチャーの特殊な発展はなかっただろう」という意見には必ずしも同意できないだろう。それは知識の不足からくる過剰な単純化・無分別な神格化であり、正しい理解のためにはむしろ有害だと言わなければならないだろう。
一般に歴史において特定個人が果たす役割の大きさはかなり過大評価されている。その方が理解しやすい、というよりはそうでもしなければ理解できないという理由でだ。人間の頭は複雑な歴史をありのままに理解することなどできない。まったく理解できないよりは、たとえ不適切な単純化を施してでも、ポイントを抑えて大雑把には理解できる方がはるかにましである。
一人の人間の発想は必ず過去の膨大な蓄積に基づいており、完全な独創でまったく新しいものを生み出せる人間など実際にはいない。(ちょっとでもそれに近いことができる人間は天才と呼ばれる。)もしいるように見えたら、それは観察者の知識の不足を意味するものに過ぎない。
ただし、漫画史における手塚治虫がそうであるように、それ以前の全てがそこに流れ込み、それ以後の全てがそこから流れ出るような、焦点と呼べるような人物はいる。全てを詳しく知り尽くすには時間も能力も足りていない我々が歴史を勉強するのに一番ましな方法は、そのような人物を追うことである。
私がリリー博士をガイア教史上最重要人物と呼ぶのはそのような意味においてのみである。このことはまだ納得してもらえないとしても、この先リリー博士やその精神的後継者の思想を見ていく上で徐々に理解してもらえるようになると思っている。
序章
本書の読者に、私はイルカに関する新しい学説をいくつか紹介したい。若い世代の多くの人びとが私と同じ学説を主張しているのである。本書ではこうした学説の基礎となったもの――体験と実験、そしてそこから導きだされた推論――を紹介する。
この本の次回以降の部分では「体験と実験」の部分と「そこから導き出された推論」の部分の境界に注目してもらいたい。そこが現代(約半世紀前ではあるが)の“理性と神秘の境界線の位置”だからだ。
脳の構造とクジラ類の行動に関して、さまざまな事実が発見され、整理されて、多くの生物学者や水族館でイルカやクジラを飼育している人びとが従来主張してきたものとは真っ向から対立する学説が生み出され、理解されるようになった。手短に言えば、この新しい思想はこう主張している。大型の脳を持つクジラ類はどの人間よりもすぐれた知性を持っている、と。従来の学説は、イルカとクジラにたいする無知にもとづいており、彼らとの直接的なふれあいを欠いていた。
脳の構造・大型の脳・脳・脳・脳。
これまで人類の学説はさまざまな衝突を生み出してきた。政治、領土、宗教、法律、男と女の関係といった領域で衝突が生まれた。これにたいし、クジラ類に関する新しい学説は、個々の人間に関して、そして政治、社会、さらには科学に関して、疑問を投げかける。人間は地球を変えつつある。
えーと、あなたの学説は回り回って(少なくとも日豪間では最大の)とんでもない国際問題を生み出してしまってますが……。これまた狙ってやっても決してできないであろうものすごい皮肉だね。私はこういう物事が好きでたまらない。わざと不適切な言い方をするとこういうことにこそ神を感じる。
人間は地上の大型の哺乳類をことごとく殺戮してきた。北アメリカに生息していた大型の哺乳類は、人間の手で絶滅に追いやられた。アフリカの哺乳類は、その生息領域に人間が侵入したために激減した。海に棲む哺乳類は、人間が侵入してきて自分勝手に捕獲したために、絶滅の危機に瀕している。
これは重要なことなので第4回で一度詳しく言っているし、これからも折に触れて繰り返すが、ガイア教徒の「クジラを殺すな!」という叫びに「お前らだっていっぱい殺してたじゃないか!」とか「お前らもカンガルーとかディンゴとかいっぱい殺してるじゃないか!」とか言い返すのは論理的にも戦術的にもまったく間違っている。
それはまったく効果がないばかりかむしろ逆効果をもたらす。彼らの行動が過激なのは、過去を忘れて反省していないからではなく、反省しすぎて安易な救済に飛びつかざるをえないほどの激しい罪の意識に苛まれているからだ。*1そんな反発は彼らの罪悪感をさらに掻き立て、ガイア教のありがたさを増すばかりだ。
なんで捕鯨に反対したら救済されるのかって? 私に聞かないでくれ。それがガイア教だからとしか答えようがない。なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。キリスト教徒なら説明してもらう必要はないし、説明されて理解できるならその人はすでにキリスト教徒である。
以前(一九六五年以前)私は、人生における究極の目的は、完璧な客観性を備えた科学的観点を保つことであり、絶対中立の科学的観察者の立場を維持することだと考えてきた。しかしいまでは、こうした公平無私のエコロジー観は何の役にも立たないと確信している。社会的な責任を取ること、つまり自分の属する種から自然へのフィードバックに力を貸そうとしない科学者は、社会に奉仕するという限られた役割を越えて、人類としての責任をまっとうすることはできない。自分の拠りどころを明確にし、行動を起こすことこそ、自己と自己の属する種を理解し、絶滅から救うための不可欠の条件である。
第20回を読み直そう。私は「このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。」と書いた。これがその一部だ。
客観性を奉ずるあまり無慈悲になってしまった過去の科学を深く深く反省した結果、今度は慈悲を奉ずるあまり客観性を軽視してトンデモになってしまった、というわけだ。わかってみれば簡単なことでしょ? あちらを立てればこちらが立たず、科学とは難しい活動なのです。
われわれ人類は新しい倫理、新しい法律を必要としているが、それは自分たちと同じか、それ以上に大きな頭脳を持つ他の動物のライフスタイルと生活圏への侵略を禁ずる倫理の上に築かれなければならない。われわれは法律を改正して、クジラ類を個人や企業、政府の所有物であることから解放する必要がある。法律において、個々の人間の尊厳が貴ばれているのと同じように、個々のクジラ、イルカに対しても敬意が払われるべきなのである。
どっかで聞いたような台詞じゃないかい?(参考)
火薬の爆発力を利用してクジラの体内に打ち込まれ、その噴気孔から大量の血を噴き出させる爆発型の銛は、悪夢のように多くの人びとの心を苛みつづけている。クジラの断末魔の叫びは世界中の海であがっているのに、その叫びをあげさせている張本人たちの耳には聞こえていない。自分たちは産業用に必要な大量の食肉を確保するためにクジラを殺しているのであって、地上で最も大型の、精妙な脳を殺しているのではないと思っている人びとは、そうした考え方を変える必要がある。クジラ類に人間と同じ法律を適用して保護してやり殺戮をやめさせなければならない。
「それは大型の脳じゃなかったら殺してもいいという意味なのか?(笑)」という反応が生じるかもしれない。しれないどころではない。今回の騒ぎを通じても実際に多くの日本人が同じような台詞に同じような反応を示しているのを見ている。
何を笑ってるんだお前は? 答えはもちろんYESだ! 今さっきその論理で何百万人か地獄へ送ってきたところだろうが。そんなに可笑しいかよ? いくら不謹慎な笑い大好き人間の私でも引くぞ。
まさにここで「奇妙だ」とか「馬鹿げている」とか「それは何か他の意図(利権とか寄付金とか)を隠す建て前だ」とかいう風に片づけてしまわないように、私は『人間の測りまちがい』の紹介に時間をかけたのだ。
イルカを捕獲し、隔離している人びとは、隔離をよりゆるやかなものにして、隔離されたイルカが海中にいる家族や仲間だちとコミュニケーションがとれるようにしてやるべきである。イルカやクジラを隔離するのならば、あらかじめ取り決めた一定期間だけ隔離して、そのあとは本来の生態環境に戻してやり、人間の活動を仲間たちに伝えるようにしてやるべきである。私は現在の水族館がイルカの「監獄」であることをやめて、イルカと人間の双方を教育する、「異種間スクール」になればよいと考えている。
「異種間スクール」って……あんたでしたか電波の発振源はッ!! そうなんですよユリカさん、これはかわいそうすぎるのであまり言いたくないんだけど、あなたに言及する機会はおそらくこれが最後なので、ここで言っておかなきゃならない。ぶっちゃけた話あなたはLSDでトリップしたおじいさんの妄想の中で生きているのですよ。
これ以上いじめないので、アトピーに負けずに強く生きて下さい。もっともあなたのような段階までいってしまった方はもういっそ目覚めない方が幸せだと思いますが……(目ざめたところで社会全体も似たかよったかだし)。しかし、私たちはそういうわけにもいかないので先に行かせてもらいます。(つづく)
*1:この罪とそのあがないの強調は、ユダヤ・キリスト教の伝統にうまく合致している。
おまけ
■ガイア教の天使クジラ27
前回に続きジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読み進めよう。やっと本人の登場。
著者序文
一九五五年、私はイルカ(本書では基本的にハンドウィルカTursiops truncatusを指す)の科学的研究に着手した。一九六八年、この研究プログラムは終了した。この間、イルカについて大きな発見がいくつもなされた。
一九六八年から一九七六年にかけて、私は自分自身を含めた人間についての研究に精力を注いだ。この研究はのちに一冊の本(『ディープーセルフ――深層リラクセイションとタンク・アイソレーションのテクニック』サイモン・アンド・シャスター、ニューヨーク、一九七七年)にまとめられ、刊行された。この研究をまとめるあいだに、私は一九六八年から一九七六年にかけて発表されたイルカに関する論文に目を通してみた。その結果わかったことは、一九五五年から一九六八年にかけて私が発表した論文にもとづいて、イルカと人間のコミュニケーション、イルカ同士のコミュニケーションを論じた研究は一つもないということだった。
ですよねー(笑)。
すまん、前回他人に笑うなと力説しておいて自分がいきなり笑ってしまった。でもこれで笑うなというのも、それはそれである意味人間性に対する冒涜というものだろう。この本には研究の終わりについては書かれていないが、他の情報源によると「“仲間”を実験のために閉じこめておくのは倫理に叶わない」という理由で飼っていたイルカを逃がして自ら実験を打ち切ったそうである。実情はどうだったのかは知らないが、推して知るべし。
その後、直接彼の後を追ってみすみす自分のキャリアを棒に振るような学者は、さすがにいなかったようだ。だが後で見てもらうように、彼の精神は一般大衆はもちろん、一部の学者の間にさえ広く生き残ったのである。
私は一九六八年から一九七六年にかけて他の研究者が発表した論文の目録を作成した。やがて私はこの文献目録を出版したいと考えるようになった。
これらの論文に目をとおして、私はいまこそイルカについての自分の研究をまとめるいい機会だと確信するようになった。
(中略)
著者と協力者たちが一九五五年から一九七六年にかけて達成したイルカに関する発見の年表を次頁に掲げた。表中の文献の参照番号は付録の文献解題のものである。
写真の年表を見てもらおう。すでにあちこちにそこはかとなく微妙な空気が漂っているのが感じられるだろうが、特に「LSDって、あのLSDと同じ略称だけとなんの略?」と思わないだろうか? これは実は他の何の略でもなく、あのLSD、リゼルグ酸ジエチルアミド以外のなにものでもない。彼は自分やイルカにLSDを使うことで互いに交信できると考えた。このあたりは第24回で予習してもらったようなヒッピー文化を踏まえていないとまったく意味不明になってしまうところであろう。
人類は有史以前から幻覚剤を使って動物と交信をして神秘的な知識を得ようとしてきた。いつごろからと断言できるような考古学的証拠を持つ者は今のところ誰もいないが、ラスコーやアルタミラの素晴らしい*1壁画を描いたクロマニヨン人たちがそうしていなかったとしたら驚くべきことだろう。そして今や酒や毒茸はLSDに、雄牛がイルカに道を譲ったというわけだ。人類も随分と進歩したもんだ。
『針の上で天使は何人踊れるか』で学んだ教訓を憶えているか? 未開人はもっぱら呪術の世界に浸っていたのではなく、自然の力と超自然の力をともども認識し、普段は確実な知識に基づく合理的な手段で自然に対処していたが、あらゆる努力も知識も凌駕する不可知の影響力を統御するときに、呪術に頼った。文明社会も実は同様なのであり、理性と神秘の境界線の位置や知識の体系のあり方、それらと社会の仕組との関係が異なっているだけなのである。
日本語版への序文
一九七八年に本書『イルカと話す日』を出版したとき、私は揺るぎない結論を得たと考えた。二〇年以上にわたってイルカを科学的に研究し、イルカが生理面でも、精神面でも、特有の能力を持っていると考えてきた私は、この驚くべき生き物とコミュニケーションを交わす方法を習得すれば、人類はいずれ、私が「種の孤立」と名付けている状態に終止符を打てるだろうという結論を出したのである。
それ以前、正確には一九六〇年に、私は慎重に考えたうえで、次のような楽観的な見通しを述べている。「あと一〇年か二〇年ののちに、人類は他の生物とのコミュニケーションを確立するだろう。人間とは種を異にするその生物は、地球外生物の可能性もあるが、むしろ海洋に棲む生物である可能性のほうが高く、間違いなく高い知性を備えている。おそらく人間と同程度の知性の持ち主であろう」。
一九九四年現在、こうした異種間コミュニケーションはまだ実現していないが、私はいまだに一九六〇年当時と同じく、異種間コミュニケーションの実現に楽観的な見通しを持ち、希望を抱いている。そしてこのたび本書が日本で刊行されるにあたり、私の初期の研究がいまも人びとから注目され、関心を呼び、私の研究の意義に理解を示す人びとが増えつつあることを嬉しく思う。
笑った直後であれなのだが、私は、彼の50年代から60年代の研究自体は、かなり度外れているとは言え、科学を進歩させる(可能性があった)正当な想像力の飛躍として認められるべきだと考える。しかし、その後に彼が取った態度はまったく弁護できない。すでに亡くなって(あるいは肉体を抜け出して異星文明に帰って)しまった彼を裁く法律はない*2が、彼は今日の状況に対して道義的責任を負っており、歴史の審判を受けねばならないだろう。(ちょっとイルカ好きが度を越したぐらいでそんな目に遭わなきゃならないとは、地球はなんとも物騒な星である。)
本書の刊行以来、クジラ類の脳の構造が人間の脳に匹敵する大きさと複雑さを持つということは、多くの人に理解され、支持されるようになった。地球上には人間以外に、意識を持ち、自己を認識し、複雑で抽象的な思考をめぐらすことができる生物がいるという、この発見によって、あらゆる生物の頂点に立っているのは人間だけではないという考えが理解されるようになった。
この特権的地位を占めているのは、人類だけだというこれまでの通説が覆されたのである。この理解が広がることで、旧来の人間中心の世界観は、根本から組み替えられることを余儀なくされた。それはちょうど、コペルニクスが新しい地球観を打ち出して、地球は宇宙の中心ではなく、きわめて特殊な衛星を持つ小型の天体なのだと主張したのと同じくらい、革新的なできごとだった。
またきた。やもするとマッドサイエンティストの途方もない誇大妄想だと片づけてしまいそうになるところだ。しかし、あなたはそうとも言えないということをすでに学んでいるはずだ。これは第17回で見たような伝統的・キリスト教的動物観への反動と捉えなければならない。その意味でとても自然な発想であり、ある意味で確かに革新的なことなのだ。
本書の主題はコミュニケーションである。そこで叙述の目的上、私はコミュニケーションを、二つもしくはそれ以上の知性のあいだで行われる情報の交換と定義した。そして、人間がイルカやクジラなどの古代から生き長らえてきた頭脳と充実したコミュニケーションを交わせるようになったとき、彼らとの意思の疎通がどのような成果がもたらすかを詳しく論じた。
嘆かわしいことであるが、人間は海に棲むクジラ類にたいして、いまだに別のかたちの干渉や働きかけを行なっている。人類は海洋を汚染し、海洋の生態系を破壊している。そして最も恐るべきことに、人類は直接的であれ間接的であれ、意図的にさまざまな海生動物を絶滅に追いやっている。その結果、一九九二年だけで人間の捕鯨によって、一○○万頭以上のクジラ類が殺されているのである。隣人と争い、他の人類に戦争をしかけ、他の生物を情け容赦なく捕獲して絶滅させることで、人間は「コミュニケーション」という言葉の本来の意味を冒涜しているように思われる。
もしかして(もしかしなくても)冒涜されている「コミュニケーション」という言葉の本来の意味ってのは前の段落で自分で定義したもののことなのかな。それにしても一〇〇万という数字はどこから出てきたのだろう?(一〇〇万だったら何なんだということはひとまず置くとして) 捕鯨だけでなく、漁網に絡まったりして死ぬイルカの類*3を全世界分合計しても、まだ足りない数だ。数の多さを表す飾り言葉である"million"の誤訳(「無数の」と訳すべきところ)という可能性も考えたが、はっきり「一九九二年だけで」と言っているところを見ると無理があると思う。正直私にはわかりかねる。
私は、人間と同じように大型の脳を持ち、地球に住み、地球に生命を委ねているこのクジラ類という動物に新たな期待を寄せている。熱意に溢れ、進んだ意識を持つ数多くの人間がたゆまぬ努力を重ねて、無知の壁を取り払コミュニケーションの障壁を突破すれば、やがて人間とイルカは言葉を交わせるようになり、双方が地上での生活から得たさまざまな体験を共有し合えるようになるだろう。
私は「クジラ類国家」の設立を構想している。クジラ類国家をつくって、代表の人間を国連に派遣し、この国家――地球の表面の七一パーセントを占める海である――の住民の主張を、正当なやり方で自由に表明させるのである。
これも同じだ。子供じみたマンガチックな空想に見えるかもしれないが、第21回のあたりで見たような、長い人種差別の歴史に対する反動として捉えれば、そこまで突飛な発想とは言えなくなる。極端から極端に走ってしまうのは人間のもっとも基本的な弱点の一つだ。
最後に本書を手にしてくれた日本の新しい世代の読者に、謹んでお礼申し上げるとともに、彼らがこの夢の対話の実現に取り組むことを心から歓迎したい。素晴らしい新世界を築くには、若い世代がこの、イルカとの対話という課題に取り組むことがぜひとも必要である。そしていつかわれわれは共通の夢を抱いたことを誇れるようになるだろう。また、いつの日かその夢が実現すれば、一層の誇りを感じることができるだろう。
一九九四年三月三〇日 ハワイ、マウイにて ジョン・C・リリー
すまないが私にはお礼を言われる資格はないようだ。まだようやく序文が終わったところだが、いったんまとめよう。
スティーブン・ジェイ・グールドのような人々が公民権運動で黒人差別を撤廃しようと戦っていたのとまさに同じ時に、なぜだか知らないが、自分たちは孤独だ、孤立していると感じ、シロイルカの白い肌に熱烈なキスをしている人々がいた。彼らは、西洋の伝統的な宗教観や社会哲学に批判的だった*4が、最初から西洋哲学の伝統から外れたところにいる人間の目から見ると、まだまだそこから抜け切れていないか、あるいは一回転して元に戻ってしまっているだけだった。
もうしばらくリリー博士につきあうことを通じて、この「ねじれ」をもっとはっきり認識できるようになってもらいたい。この「ねじれ」こそがガイア教徒の全ての力の源であり、同時に彼らに限界を課しているもの、すなわちガイア教そのものであるからだ。(つづく)
*1:少なくとも私の絵よりうまい。
*2:そんなものがあるべきだとも思わない。
*3:言うまでもなく捕鯨とは比べものにならないほど多い。
*4:少なくとも本人はそう思っていたし、それは決して嘘というわけではない。
おまけ
C・W・ニコルさん。この人だけは心底気の毒だ。
■ガイア教の天使クジラ26
ではジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読むことにする。日本での出版は1994年だが、原著(Communication Between Man and Dolphin: The Possibilities of Talking With Other Species)は1978年の刊行であるので時代を意識する必要があるときは78年の方に脳内時計を合わせなければならないと注意しておく。*1
序言――シロイルカからの招待―― アントニエッタ・L・リリー
数年前から、私はクジラとイルカに関するおびただしい量の情報に接してきた。セーブ・ホェール、グリーンピース、ドルフィン・エンバシーといったさまざまな組織がアメリカ全土に連絡網をめぐらせている。さまざまな地域の人びとが、この愉快な生き物に興味をいだき、イルカについての知識を深めたいと考えて、私の夫、ジョン・リリーのもとにやって来て助言と情報を求めてきた。というのも夫のジョン・リリーは、イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっていると最初に主張した人物だからだ。
しょっぱなからメチャクチャ重要なポイントだよ! はてさて「人間並み」と言いつつ同時に「海生動物ならではの独特な形をとっている」というのは一体全体どういう意味なのだろう? 人間は海生動物だっただろうか? 火星人ならそう聞き返すだろう。さあ彼女は何を言わんとしているのか? これはある意味、この本全体を通じて一番重要な点である。あなたは読み終わる頃までには、この問いに答えられるようにならなければならない。今から考え始めておこう。スティーブン・ジェイ・グールドならなんて答えるだろうか?
二〇年間にわたる独自の科学研究の末にリリーが得た結論は、すでに多くの人ぴとに知られている。人間はもはや知性を備えた唯一の生物ではない。イルカにも知性が備わっている。私は、サンディエゴの研究所で経験したある感動的な出来事によって、この事実を目の当たりにした。
最近、私たち夫婦はヒューマン=ドルフィン・ファウンデーションを設立した――イルカとのコミュニケーションを推進するための新しい研究機関である。またそのいっぽうで、私は、個人的にもこの目標を達成したいと考えていた。私にとって、イルカとのコミュニケーションは現代における最も興味をそそる、重要な試みなのである。
次の部分ひときわ振るってます。注目。
一頭のイルカが水から頭を出して、こちらを見つめた。私も相手の目をまっすぐに見つめた。突然、イルカが口から水を吹き出した。水鉄砲は私の顔と肩に命中し、ゆっくりと全身を濡らした。それは愛情あふれるふれあいだった――もっと親しくコミュニケーションをしようという誘いだった。それは、これまで人間から受けたどのようなアプローチよりも官能的な誘いだった。私は無意識に手で水をすくって口に含むと、そのイルカに水鉄砲のお返しをした。そのあと数分間の喜びは、書き留めてもおよそ意味をなさない。
私はイルカの白い肌に手を触れ、キスできるようになった。これこそ私が体験したかったことなのだ。私は境界を越えて新たに開かれた世界に入り込み、充足感に満たされた。分かち合える世界を持とうというこのイルカの誘いは、生物同士を隔てている亀裂の彼方にかいま見える、ある世界のビジョンを私に授けてくれた……いつの日かすべての生物が一体化される時が来る……そこでは、かつて隔てられた生物たちが再びひとつにまとめられる、平和な楽園、「平和の王国」が実現する。生物は種ごとに孤立化し、その孤立を高めていく。やがてそこから生命の凝縮と拡散の過程が生まれ、思いもよらぬ形でクジラ類との一体化が起こる。
しかと見よ、ガイア教徒に約束された千年王国の姿! いきなり「彼女は頭がおかしい」と片づけてしまいたくなった人もいるだろうが、さて彼女は頭がおかしいのか? いーや、ちっとも。仮に百歩譲っておかしいとしたって、信仰を持つキリスト教徒の誰よりもそんなに顕著におかしいとは言えない。私がここの記述で連想するのはイザヤ書の一節*2だ。彼女が(意識しているかどうかにかかわらず)このような伝統的イメージの影響を受けていないと考えるには特別な理由が必要だろう。私にはその理由は何も思いつかない。
……ところで、だ。こんなささやかな千年王国の到来すら邪魔しようとする奴らがいるよなあ? 他人んちの裏庭の海*3までわざわざやってきて、血まみれの口で「お前らの信じる天国など妄想だ! お前らの生は無意味で、終わりにあるのは虚無だけだ!」とゲラゲラあざ笑っている悪魔のような、いや、悪魔そのものの奴らがなああ? いったい誰だっけそんなけしからん奴らは? めっちゃ許せんよなあああ!?
白いおばけたちは不思議なほど愛情がこまやかで、水中で悪戦苦闘している私を気遣ってくれた。彼らは、太古の冷たい海を泳いでいた私自身なのである。細胞が組織され、陸に上がってくる以前のはるか遠い過去に、私は海の住人であったのだ。彼らと過ごしたこの日、私は水中に住んでいたころの過去の自分を取り戻した。
過去にさかのぼり、彼らとともに自分の起源についての新知識を語り合い、彼らと一緒に人間とクジラを長いあいだ隔ててきた壁を打ち破りたいと私は願っている。
「細胞が組織され」が「陸に上がってくる」に繋がる理由が全くわからんのだが、見てわかるようにいちいち突っこんでいたらきりがないのでやめる。しかし、これじゃあアクア説は、裏付ける証拠がいっさいなくてもあまりにも素敵なのでどんどん信じちゃいたくもなるってもんだよね。
序文 バージェス・メレディス
(前略)リリーの自宅の隣には、一部屋半の広さしかない小さな実験室がある。ここでは、一週間のうち五日間、アメリカとカナダのさまざまな地方からやって来た若い科学者たちが、リリーの指導を受けながら無報酬で働いている。彼らはソフトウェアとハードウェアとを連動させる仕事に取り組んでいた。また、ファウンデーションが購入したさまざまな種類のコンピュータやハイドロフォン、計算用の機器の調整、研究結果を使った科学的な実験の準備などの、より簡単な仕事も行なった。
ファウンデーションで働く者は、選ばれてこの研究に参加しているという誇りを感じていた。ファウンデーションの研究は重要な進展を見せているという噂が流れ、実際に高い地位にある人びとが訪れてきた。
コンピュータが激しく時代を感じさせてくれる。今日の社会から「大きな脳」に対する強迫観念が(「しっかり残っている」と言える程度までは)消滅してしまっているという事実も、我々が猛烈な勢いで小型化かつ高性能化するコンピュータを見ながら育ったという時代背景の間接的な記録に過ぎないのではないか? という思いつきが生じる。
人間よりも大きな頭脳を持つ動物(地球においても他の惑星においても)とのコミュニケーションの達成には巨大な可能性が秘められており、現代の地球における「人間のかくも長き孤独」に終止符が打たれるとすれば、もちろん歴史的な大事件となるに違いなかった。
つまるところ、私たちはクジラとイルカが絶滅する前に、彼らと話ができるようになろうと努力しているのである。ギリシャ悲劇のように、そこには凄まじい緊張感があり、どんな結果が出るかはまだ明らかではない。
(中略)
故ジョン・スタインペックは『コルテスの海』の中でこう書いている。「人間は足元の潮だまりを見つめるべきである。ついで星を眺め、また再び潮だまりを見つめるべきなのである」。
宇宙から海への神秘の移行は第12回でもちょっとだけ触れたが、どうも私の深読みし過ぎというだけでもないようだ。関連する時代背景としてはアポロ11号の月着陸は1969年。
ジョン・リリーはこれと同じことを別の言い方で語っているのであり、私たちの多くが彼に惹きつけられるのも、彼のそうした主張によるものなのである。「人が心の中で真実だと感じるものには、最初から真実であるものと、しだいに真実となるものとがある。いずれの場合も、その真実には、一定の限度が設けられている。そしてこうした限度こそが理性では説明のつかない信念というものなのである」
これが高度に悲惨な自虐的ギャグに聞こえるとしたら(私には聞こえる)、それは単に私たちがすでに結果を知った上で読んでいるからに過ぎないことに注意しなければならない。それを忘れて彼らを変人と笑うのは誰よりもまず私が許さぬ。
現在の我々がイルカ・クジラが人間以上(というのが何を意味するのだろうかという疑問はひとまず置くとして)の知能を持っているとは考えないことに何らかの自信を持っているとすれば、そのことは、「かつて彼らのような立派な技術と知識を備えた大勢の人たちが“イルカ・クジラには人間以上の知能があるはずだ。あって欲しい。”という最大限の予断と偏見を持って臨み、それでも失敗した」という事実を知っている、という以外の何事をも意味しない。(つづく)
*1:個人的な話だが、私は1979年生まれなのでちょうど私が生まれた頃にあたることになる。
*2:「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」11:6〜9
*3:オーストラリア人から見ての感覚
おまけ
キリスト教原理主義は反捕鯨とは関係ないというのはこの動画一つ見てもわかるだろう。宗教原理主義など信じていそうな保守的な人というのはどちらかというと、左派的なガイア教には懐疑的な人間だ。(もちろんこのおっさんが原理主義者だというわけではないが、どんな反捕鯨活動家よりもそちらに近いタイプの人間であることは論を待たない。)
■ガイア教の天使クジラ25
さて第二ラウンド開始である。これから4人のガイア教徒と対決していただくが、今度の相手はこれまでと違ってプロである。みな名だたる大学の博士であったり、権威的な科学者であったり、立派な団体の職員であったりする。みな実際に社会におけるイルカ・クジラのイメージを変えたり、反捕鯨運動に重要な役割を果たした人物ばかりである。
彼らは、ガイア教のほんの上っ面を撫でただけのユリカさん(本人はそう言われるのは不満だろうが)や、テレビでの又聞きをたれ流しただけの第10回の男などとはわけが違う。第12回で読者の心胆を寒からしめたビクター・ケラハーさんですらも、(個人的には好きなのだが)彼らの前ではほんの下っ端にすぎないと認めざるを得ない。
私があえてそのような雑魚に長い前置きの時間を費やすことを選んだことには、その方が面白いという構成上の理由以外にも、免疫をつけるという目的があった。それをダシにしてでも、どうしても先に文化人類学的思考と西洋思想史についての最低限の基礎知識を身につけておいてもらいたかったのである。
(第13回に書いた、シーシェパードの件による順番変更でそうなったわけではない。あそこで飛ばされた文学作品が一つあるが、位置づけとしては『クジラの歌がきこえる』に近いものである。まだ紹介する価値はあると思っているので良い機会あれば息抜きに入れるかもしれない。)
逆に言えば、その準備なしにいきなりここに突入した場合、読者が「やっぱりこいつらは頭がおかしい例外的な人間にすぎない」とあっさり片づけてしまったり、もしくは恐怖に耐えきれずに目と耳を塞いで逃げ出してしまったり、あるいはもっと悪くすれば……改宗させられてしまうことを危惧したのである。その危惧はまだ完全に消えたわけではない。この先を読み進めるにはしっかり覚悟を決めて、そのぐらい警戒してほしいということだ。
では行くぞ。トップバッターは先に予告した通り、私が考えるガイア教史上最重要人物だ。一人で歴史上の3つの存在の大いなる連鎖全てに関わり、最初期のイルカ知能研究者であり、ニューエイジ文化の中枢に位置したグル(導師)であり、大衆の間でのイルカ・クジラのイメージを大きく変えたその男の名はジョン・カニンガム・リリーである。(つづく)
予習用資料
- 心と脳を科学し続けたサイケデリック・グル- ジョン・C・リリー John.C.Lilly -
- ジョン・C.・リリィ博士
- SF映画選・アルタード・ステーツ
- 松岡正剛の千夜千冊『意識の中心』ジョン・C・リリー
- spiritual bookstore BOOK CLUB KAI / people /ジョン・カニングハム・リリー
おまけ
彼がモデルとなった映画。さすがに古すぎるせいもあって(普通の意味では)あまり面白くはないが、この1だけでも観ておくと時代の雰囲気が掴めていいかもしれない。
■ガイア教の天使クジラ24
さて、前回までで約500年間の脳内時間旅行を終え、現代に帰ってきた。今は1950年代後半から1960年代(特に60年代は各リンク先まで行かなくてもいいので全体に目を通すこと)である。ここから先は全てたかだか5,60年前の話であり、読者の中に当時十分に物心ついていた人間がいても少しもおかしくない時代である。もはや現代と言っても過言ではないだろう。
しかし、現代だからといって油断してはならない。現代だから、まるで異世界だった500年前や150年前よりもよくわかっていると思ったら大間違いである。我々はその後共産主義の崩壊および911という思想史的に大きなインパクトのある事件を二度も通過しており、この時代は十分に異世界である。
しかもこの時代はいくつかの理由により遠い過去よりもかえって理解しにくい。最大の理由はもちろん、いまだ私たち自身がその一部に包み込まれている現在進行形の出来事であること。他には問題の基本的な事実に決着を付けるための科学が未発達であること(もっと後から振り返って見る場合と比較して、という意味。500年前のことを考えるとき魔女が本当にいたのどうか一瞬でも悩む必要があったか?)およびそれを整理して歴史としてまとめるのに必要な時間が経っていないこと、などがある。
(現に私は、この時代の教科書として使えるような思想史の本を、500年前についての『天使は針の上で何人踊れるか?』や、150年前についての『人間の測りまちがい』に当たるような決定的な本を見つけることができていない。おそらく探せば見つかるのだろうが、今探している時間はない。Wikipediaに頼る機会が増えるだろう。これまでよりもリンク先に注意してもらいたい。また、この時代の空気を手っ取り早く知ることができる映像作品としては『映像の世紀』の第8集・第9集を薦める。)
しかし難しいからといってこの時代の理解は少しでもおろそかにするわけにはいかない。なぜならこの時代はガイア教誕生の瞬間に他ならないからである。我々はまもなくガイア教史上最重要人物と直接対面することになるが、その時のために絶対に必要な最後の準備である。気を引き締めて臨んでもらいたい。
また頭の体操だ。ガイア教の支持層であるアメリカやヨーロッパの西側諸国に住むリベラルな白人になったつもり*1で想像してみよう。第二次世界大戦の後、日本人にはほとんど意識されていない思想的危機が訪れた。それは中世の安定したキリスト教体系が科学によって揺さぶられたことに勝るとも劣らぬ重大な危機であった。
優生学を侵略と大虐殺の正当化に利用したナチスが止めとなり、社会ダーウィニズムを中核とする第2の大いなる存在の連鎖は劇的に崩壊した。植民地は次々に独立し帝国主義は否定された。人種差別は擁護できなくなり公民権運動でついに表舞台からは完全に姿を消すことになった。もちろん彼らはそれらのこと自体には賛成であったが、それでも意識的無意識的に何百年も刻み込まれてきた安定した世界観が崩壊して不安でないわけがなかった。そんな不安な時何が信用できたか?
政治・経済は信用できなかった。冷戦真っ盛りの時代であり、現在のように資本主義の正しさ(というより共産主義の間違い)は決して自明ではなかった。キューバ危機で核による最終戦争が目の前に迫り、人類絶滅の恐怖に怯えなければならなかった。それどころかベトナム戦争で民主主義のための戦争の正義さえ信じられなくなってきた。しかし社会主義の高邁な理想には憧れるからといって、実際に共産圏の国に渡って貧しい不自由な暮らしをするのもまっぴらご免だった。
科学も信用できなかった。スプートニク・ショックで西側は科学技術でソ連に負けているのではないかと思われたし、人類滅亡の象徴的存在である核兵器を生み出したのも科学なら、沈黙の春に象徴される自然環境破壊の元凶も科学技術だった。おそらく科学革命以来こんなにはっきりと科学が不人気な時代はかつてなかった。
もちろん、科学が信用できないからといって宗教(キリスト教)が信用できるわけでもなかった。自分がサルの子孫に過ぎないと考えるのはもちろんあまり愉快なことではないが、だからといってリベラルでフェミニズムにも理解のあるオレ達イケてる若者が、今さら女性が男性のあばら骨から作られたとか、黒人が父ちゃんの○を○って神に呪われた者の子孫だとか抜かす、古臭くてカビの生えた、ダサくて仕方のない教えに逆戻りしてありがたがるようなことがどうしてできようか。
そんなこと言ってるうちにケネディ大統領が暗殺された。マルコムXが暗殺された。キング牧師が暗殺された。ベトナム戦争は泥沼。誰がどう考えてももはや世も末だった。
「……あれ? なんてこった!? 神も大統領も科学者も、教会も政府も学会も、聖書も憲法も論文も! もう何も信用できないじゃないか! そんなことって、そんなことってあるか!?」
あったんだ。これはファンタジーでもSFでもない。フィクションでも別の宇宙の話でもない。現実の、たったの数十年前の話だ。
「オレ達は理由もなく生まれ汚染の中で生き、わけもわからぬうちに水爆で吹き飛ばされて塵になる裸の猿に過ぎないのか!?」
巨大な空虚が生まれた。とてつもなく巨大な闇が生まれた。繰り返すがこれはファンタジーでもSFでもない。それが「アルカイダこえー」とか「中国産の食いもんこえー」とか呑気な不安しか抱いていない21世紀人の我々には想像すら困難なものだからといって、知らないとは言わせない。あなたはまさにその闇から生まれ出たものについて知るためにここに来ているはずなのだから。
「そんな はずは ない」
アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と言ったそうだが、この場合のアナロジーとしては適切であろう。巨大な空虚を埋めようとするが如く吹き出したこのパワーを、一番古い呼び名である「カウンターカルチャー」から始まるWikipediaサーフィンで体感しておこう。
- ヒッピー(超重要項。全部読むこと。)
何となく時代の輪郭が掴めてきたか? 上には一部の重要な項目だけ抜き出したが、独自にもっとどっぷり浸かっておいてもらった方が来週以降、彼との対話を乗り切りやすくなるかもしれない。「彼」って誰かって? 実は私の指定通りリンク先を確認しながらこのエントリを読み進めてきたならもう「彼」と出会っているはずなのだ。(つづく)
*1:もっとも現代日本人はよほどの変人でない限りかなり明白に西側かつリベラル寄りなので、単に欧米人になったつもり、でも十分と思われる。
おまけ
今週の更新が一本だけなのはこれのリピートを止められなかったからです。(下ネタ多め注意!)
■ガイア教の天使クジラ23
(前回の続き)スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』の読み合わせも今回で最後である。
女性の脳
「劣等」グループは生物学的決定論という一般理論では相互に代替性がある。劣等グループは連続的に並置されており、一つのグループは他のすべての代表として利用される――このための一般的前提としては、社会は自然の摂理に従い、社会階級は生得的価値を反映しているという考えがあげられる。かくしてドイツの人類学者E・フーシュケは一八五四年につぎのように述べた。「黒人の脳は、子どもや女性に見られるタイプの脊髄を所有し、またそれ以上に、高等なサルに見られる脳に近い。」(モール、一九〇九年、一〜二ページ)有名なドイツの解剖学者であるカール・フォークトは一八六四年つぎのように記した。
「黒人の脳は、頭頂が丸いことと後頭葉が発達していない点で、我々の子どもに似ており、頭頂葉が隆起している点で我々の女性に似ている。成長した黒人の知的能力は白人の子どもや女性や老人の特質と共通点がある……。いくつかの種族は国をつくり、固有の組織を有する。しかし残りについては、過去においても現在においても、人間性の発達に役立ったり、保存するにふさわしいことは何一つしなかったとはっきりと主張できる。」(一八六四年、一八三〜一九ニページ)
ブロカの同僚であるG・エルヴェは一八八一年に「黒人の男性が白人の女性より重い脳を持っていることはほとんどない」と記した。(一八八一年、六九二ページ)。私は、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。
私も、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。あなたはどうかな。
マリア・モンテッソリは、自分の活動を子どもたちの教育改革だけに限定しなかった。彼女はローマ大学で数年間人類学の講義をし、『教育学的人類学』(イギリス版、一九一三年)と題した影響力ある本を著わした。彼女はどんなに控え目に言っても平等主義者ではなかった。彼女はブロカの大部分の著作を支持し、彼女の同国人であるチェザーレ・ロンブローゾ(第四章)によって提出された生得的犯罪説を支持した。彼女は自分の学校の子どもの頭の外周囲を測定し、最も期待できる子どもは大きい脳の持主であると推論した。
ところが彼女はブロカが出した女性に関する結論は利用しなかった。彼女はマヌーヴリエの研究を詳細に論じ、妥当な補正が行なわれるなら女性はわずかに大きい脳を持つ、という彼の不確かな仮説を重視した。女性は男性より知的に優れているが、今までは肉体的力によって男性の方が圧倒していた。技術が権力の道具としての体力を無効にしてしまったからには、女性の時代がまもなく到来するであろうと結論した。「そのような時代には本当に優れた人類が出現するであろうし、道徳的にも感情的にも強い男性が存在するようになるであろう。多分このようにして女性支配の日が近づきつつあり、その時には女性の人類学的優秀さという未知の事実も解読されるであろう。女性は常に人間の心情、道徳、名誉の管理者であったのだから。」(一九一三年、二五九ページ)
モンテッソリの議論は、あるグループが体格的に劣っているという「科学的」主張に対する一つの可能な解毒剤である。生物学上の差異が妥当だと認めることもできるが、その結果に利害関係をもつ先入観で毒された男性によってそのデータが誤って解釈されてきたのであって、不利なグループが本当は優れているのだと主張することもできる。近年エレーヌ・モーガンは自著『女性の由来』の中でこの戦略をとった。すなわち、女性の観点から人類の有史以前を推測し再構成した。これは男性のための男性による例の誇張された話と同様に茶番めいている。
エレーヌ・モーガンって名前にどこかで聞き憶えがないか? そう、第10回に出てきた、水棲類人猿説*1を有名にしたエレイン・モーガンのことだよ。何というか類は友を呼ぶというか世間は狭いというか。この「世間は狭い感」はこれから先何度か繰り返し味わうことになるだろう。(ここで『女性の由来』と書かれている本は『女の由来―もう1つの人類進化論』のこと。)
私は本書を別の立場から執筆した。モンテッソリとモーガンはブロカの方法を踏襲し同質の結論に達した。私はむしろどのような目的であろうと、さまざまなグループに生物学的価値を固定しようとするすべての企てに対して、それが見当ちがいであり、知的に論拠薄弱であり、全く有害であることを示したかったのである。
私はこの意見に強く同意する。俺も俺もと同意する人が大勢いそうだが、ちょっと立ち止まって考えてからにした方がいいと思うぞ。「どのような目的であろうと」だぞ? たとえ人類の傲慢をたしなめ地球を破滅から救いたい一心であろうとだぞ?
第四章 身体を測る
我々はみんなサルの状態があった――反復現象
反復説は人間のグループを高等とか下等とかランクづけようとした科学者に魅惑的な規準を提供した。劣ったグループの成人は優れたグループの子どもに似ているに違いない。子どもは原始時代の祖先の成人の状態を表わしているからである。もし、成人の黒人や女性が白人の男の子に似ているならば、彼らは白人男性の進化過程における祖先の段階を示す生きた見本である。頭のみでなく、身体全体をもとにした人種ランクづけのための解剖学上の理論が構築された。
反復説は生物学的決定論の総括理論としての役割を果した。すべての「劣等」グループ――人種、性別、階級――は白人の男の子と比較された。E・D・コープは反復のしくみを明らかにしたアメリカの優れた古生物学者であるが、この規準によって、次の四つのグループを下等な人間の形態とした。すなわち、非白色人種、すべての女性、北欧の白人に対立する南欧の白人、および優れた人種の中の下層階級、である(一八八七年、二九一〜二九三ページ。コープは、とくに「アイルランド人の下層階級」を軽蔑した)。コープは北方民族の優越性を説き、ユダヤ人や南欧人のアメリカヘの移民を減らすよう勧告した。
この流れは、このエントリ最後の部分に続く。
反復説は人種のランクづけについての人体測定学的議論、とりわけ頭蓋計測学的議論に対して、根本的視点を与えることとなった。再び、脳が大きな役割を果すことになった。すでに創造論者の立場でルイ・アガシは、黒人の成人の脳と、七ヵ月の白人の赤ん坊の脳とを比較している。我々は前にフォークトのつぎのような驚くべき主張を引用した(一六一ページ)。黒人の成人および白人の女性のそれぞれの脳は、白人の男の子の脳と同じ程度であり、それから考えれば、黒人はどのような価値ある文明をも創りあげることはできないと。
(中略)
ルッドヤード・キップリングは帝国主義的詩人であるが、反復説の考えを白人の優越性を主張した有名な詩の最初の節で示している。
白人の重荷を背負え――
君たちが育んだ最良のものたちを送れ
とらわれ人たちの窮乏を救うために
君たちの息子たちを故国から追いやろう
きびしい仕事に耐えて
あわてふためく未開の民に奉仕しよう
君たちが新たに捕えた無愛想な人々は
半ば野獣で、半ば幼な児
第1回にもちょっと出てきた、大きな反発を呼んだマルコム・ターンブル環境相(当時)の発言を憶えているだろう。おそらくマルコム氏はこのような歴史を知らないのだと思う。こうした形で言わば「鎧を覗かせる」ことはガイア教徒として最も慎重に避けなければならないミスである。知っていれば避けられたであろう。知っていて言ったならもちろんもっとやばい。どちらにしろかなり情けない話ではある。
もし、今世紀に興味ある新しい考えが付け加わらなかったとしたら、十九世紀の愚かさと偏見に対する一つの証明であるこの物語はそのまま続いたかも知れない。一九二〇年までに反復説は崩壊した(中略)。それから間もなく、オランダの解剖学者ルイス・ボルクがまさに正反対の理論を提出した。(中略)進化でしばしば見られる逆の過程が起こると考えてみよう。祖先の子どもの特徴は成長がひどくおくれて、成人の特徴になったと考えてみよう。この遅滞成長の現象は自然界には普通に見られるもので、ネオテニー(文字どおりに解釈すると若さを保つ)と呼ばれている。
ボルクは、人間は本質的にはネオテニー的なものだと論じている。彼は人間の成人、サルの胎児や、若いサルには共通してみられるが、親のサルには欠げている一連の印象的な特徴をリスト・アップした。すなわち、頭蓋骨の丸いこと、体の大きさのわりに大きな脳をもつこと、顔の小さいこと、頭やわきの下、それに陰部にのみ体毛が限られていること、および回転しない大きな足指(中略)大後頭孔の位置が胎児の状態を保っている
ネオテニーは反復説よりは真実に近いがそのまま信じない方がいい。今回の問題とは関係ないので深入りしないが、遺伝子と胚発生や進化の仕組みとの関係がかなり明らかになっている今では、もはや一般論に取り込まれており特別に有用な概念ではない、とだけ言っておく。(参考)
七十年間、反復説の支配下で、科学者たちは、成人の黒人・女性・下層階級の白人が上流階級の白人の男の子に似ているという同じメッセージを声を大にして宣言しながら、多くの客観的データを集めてきた。さて、ネオテニーから見ると、これらハードなデータは、たった一つのことを意味しうることになる。他のグループでは子どもの優れた特徴が保たれているのに、上流階級の男性ではそれが失われている。したがって、彼らは劣っているということになる。これは逃れられない結論である。
少なくとも一人の科学者ハーヴェロック・エリスはこの明白な含意にかぶとを脱ぎ、女性が優れていることを認めた。ただし、黒人については同じような告白はせずに、ごまかした。(中略)エリスはは因習を打破したり、論争的であり(彼は性に関する初めての体系的研究書を書いた)、性の違いにネオテニーの考えを応用したが、大きなインパクトを与えることはなかった。その間、ネオテニーの支持者たちは人種の差異に関連して、より一般的な、別の戦術を採用した。彼らは七十年にわたるハードなデータを放棄し、黒人の劣等性を確固とするために新しい、反対の情報を探し求めた。
ネオテニーの擁護者のルイス・ボルクは、最もネオテニー化の大きい人種は優れていると断言した。(中略)ボルクは解剖学の宝探し袋に手をつっこんで、黒人の成人が少年時代の有利なプロポーションから大きくかけ離れていることを示す特徴をいくつか引っぱり出した。これらの新しい事実によって、古い心地よい結論へとたどりついた。ボルクは「白色人種は最も成熟が遅いので最も進歩しているように見える」(一九二九年、二五ページ)と言明した。ボルクは、「リベラル」な人間であると自認していて、黒人が永久に愚かであると貶めることは拒否した。彼は、将来において進化が彼らに慈みを与えるだろうことを希望した。
いずれにせよネオテニーは今回の話題とはあまり関係がないが、科学者はその気になれば宇宙の真理からなんでも望み通りの結論を引き出せるという好例なのでここに紹介しておく。
我々のうちの誰かに存在するサル――犯罪人類学
ロンブローゾの理論は、犯罪は遺伝的である――このような議論は当時一般的であった――という不確かな声明ではなく、人体測定学上のデータにもとづいた特殊な進化理論であった。犯罪者は我々の進化的な先祖返りである。(中略)これらの人々は正常なサルや未開人がするのと同じような行動を生得的に行う。しかし、その行動は、我々文明社会では犯罪として映る。
(中略)
たとえ、ある人がサルに似ていたとしても、サルがおとなしい動物ならば、この議論は失敗に終わる。そこでロンブローゾは自分の大作(『犯罪者』一八七六年初版)の初めの部分を、もっぱら動物の犯罪行為の分析にあてている。これは、これまで出版された擬人主義の中で最もこっけいな脱線話であるに違いない。たとえば、激怒にかられてアリマキを殺し、その体をバラバラにするアリ、愛人と一緒になって夫を殺した不倫のコウノトリ、孤立した仲間を殺すために集団をなすビーバーの犯罪者仲間、メスの許しも得ずに、生殖器官の萎縮した働きアリを犯し、それに大きな苦痛と死を与えるオスアリなどを引用している。また、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている(ロンブローゾ、一八八七年、一〜一八ページ)。
これは『人間の測りまちがい』から取っている話題の中で一番現代でもそのまま生き残っている部分かも知れない。さすがにアガシやブロカのようなことをそのまま言っている人を現代で見つけることはできないが、このようなあからさまな動物の擬人化の過ちは現代にもそのまま存在する。
ロンブローゾは、犯罪性が劣等な人々の中では普通の行為であることを確認するために、民俗学にまで踏みこんでいった。彼はナイル川上流のディンカ族について小論文を書いている(ロンブローゾ、一八九六年)。彼らは派手ないれずみをし、痛みをあまり感じない。思春期にはハンマーで自分の門歯をたたきこわす。彼らには解剖学上、正常な部分としてサルに似た烙印がある。「彼らの鼻は……ぺちゃんこなだけでなく、三つに裂けていて、サルの鼻に似ている。」ロンブローゾはそう語っている。
(中略)
もし、ほめることと同時にけなす特徴がなければ、彼は「原始人」たちの中に見られる明らかに価値ある行動を無視しただけだった。拷問の下に勇敢にも死んでいく白人の聖者は英雄中の英雄として扱われる。しかし同じような尊厳さで息を引きとる「未開人」については、それはたんに痛みを感じないだけであるという。
「彼ら〔犯罪者たち〕が肉体的に苦痛を感じないことは、白人だったら耐えられないあの未開人の思春期の儀式の拷問に耐える姿を思い起こさせる。旅行者はみんな、黒人とアメリカの未開人が苦痛にたいしては違いがないことを知っている。後者は、拷問のため柱にしばりつけられ、ゆっくりと火あぶりにされても、その間自分たち種族をたたえる歌を陽気にうたい続ける。」(一八八七年、三一七ページ)。
またまたインディアン。これが裏返ったらどうなるかは……そろそろ予想がついてきたかな?
最後に知能テスト関連のことも一つだけ取り上げよう。陸軍テストというのは第20回の最初の引用にあるような学者たちが作った生まれつきの知能を測るとされたかなりバカバカしいテストのこと。
第五章 IQの遺伝決定論
陸軍テストはさまざまな社会的需要を生み出した。そのうちで、最も持続的な効果があったのは知能テストの分野であった。それは初めての筆記式IQテストであり、注目を集めた。ビネーの願いとは逆に、全ての子どもをテストし、ランクづけすることを主張した遺伝決定論者のイデオロギーを満足させるために、必要不可欠な技法を提供したのである。
別の宣伝家たちは、人種差別を擁護し、黒人が高等教育を受けるのを制限するために、陸軍テストの結果を利用した。
(中略)
一九二四年の移民制限法を通過させることになったアメリカ議会の審議では、絶えず陸軍テストのデータが引き合いに出された。優生主義者は移民を制限するためだけでなく、劣った民族の国家に厳しい移民の割り当てを課することによって、移民者の質をも変えるために圧力をかけた。――一九二四年の制限法は、陸軍テストのデータと優生主義者のプロパガンダがなかったならば決して実施されなかったし、考えられもしなかったであろう。結局、南ヨーロッパ人や東ヨーロッパ人、すなわち陸軍テストで最低点だったアルプス系の国々や地中海系の国々は当然締め出されることになる。優生学者はアメリカ史において科学的人種差別主義という最大の勝利の一つを得た。
もしかして「ふ〜ん、俺には関係ねえや」とか思ってないだろうね。ここで言う「一九二四年の移民制限法」は日本では排日移民法として知られているものだぞ。
南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民は減速することになった。一九三〇年代を通じてユダヤ難民はホロコーストを予測し、アメリカに移住しようとしたが認められなかった。法にもとづく割当人数や、優生学にもとづくプロパガンダによって、北部、西部ヨーロッパ諸国に対して拡大された割当人数が満たない年ですら、ユダヤ人は締め出された。チェイス(一九七七年)は、一九二四年から第二次世界大戦勃発までの間、六〇〇万人の南部、中部および東部ヨーロッパ人が割当人数によって締め出されたと計算している(移民が一九二四年以前の比率で続いたと仮定して)。我々は外国へ移りたいと望みながら行き場のなかった多くの人々に何が起こったかを知っている。破壊への道はしばしば間接的であるが、思想は銃や爆弾と同じように確実な手段となり得るのだ。
第二次世界大戦とナチズムおよびホロコーストに関しては比較的よく知られていると思うので詳しくは扱わない。まだまだ紹介したい話は沢山あるが、さすがに『人間の測りまちがい』だけで4回に及んでいるので残念だがここで終わりにする。
さて、ものすごい駆け足で約500年前から約50年前までを一気に通り過ぎてきたわけだが、どうだっただろうか。実は5万年前や500万年前にさかのぼっても面白い話はあるのだが、今後の話の流れ次第でちょっとだけ触れるに留める。そんな時代よりもっとすごい、もっと魅力的な、もっとびっくりするような驚異の時代がもう目の前に迫っている。現代という時代が。覚悟はよろしいか。(つづく)
*1:wikipediaでは第10回を書いていた時から今日までの間にトンデモ色を大幅に薄める編集が行われた模様である。
おまけ
男女繋がり……繋がりというかそのまんまだな。
■ガイア教の天使クジラ22
前回に引き続きスティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』を先に進める。
ルイ・アガシ――アメリカの多起源論の理論家
私は二人の著名な多起源論者にしぼって話を進めようと思う。一人理論家のアガシであり、もう一人はデータ分析家のモートンである。まず手始めに、私は、かくされた動機および、その支えとなった中心的データのごまかしの双方を掘り起こしてみたい。いぜんとして奴隷を使い、原住民を故郷の土地から追い出している国が、黒人とインディアンは白人とは別の種であり、劣等だという理論の基礎づくりをしたのは決して偶然ではない。
(中略)
アガシは一八五〇年の『クリスチャン・エグザミナー』で人種に関する大論文を公にしている。彼はこの論文を始めるにあたって、多数のアダムという説を唱えることで不信心者だと彼を非難するであろう神学者、また、奴隷制の擁護者というレッテルを彼に貼るかも知れない奴隷制廃止論者、このいずれをも煽動家であるとしてしりぞけている。
ここに提唱した見解に対して、それは奴隷制を支持することになるとして非難されるが……それは哲学的研究に対する公正な反論であろうか。ここでは人間の起源の問題についてのみ論じられるべきである。その結果に対して、政治家や、社会の管理を求められていると自認している人々に自分達が何をなしうるかを見せてやろう。……とはいえ我々は政治的内容を含むいかなる問題ともかかわりあうことは拒否する。(中略)」(一八五〇年、一一三ページ)
(中略)
アガシは自分の研究が自然誌の客観的探究であり、正当なものであるとはっきり述べていたにもかかわらず、この論文の終わりに近づくと、突然立場を変え、道徳的要請を持ち出す。
「地球上では、いろいろな場所に、さまざまな人種が生活している。彼らは肉体的にも特徴が違っている。この事実は……科学的観点から、これらの人種を相対的にランクづけ、それぞれ固有の特徴を相対的に評価する義務を我々に課する。……哲学者としてまともにそれをさぐるのが我々の義務である。」(一四二ページ)
人種の価値に差があり、それが生得的なものだという直接的証拠としてアガシが試みに持ち出したのは、コーカサス人種の文化のステレオタイプ以上のものではなかった。
「支配されうることのない、勇気ある、自尊心の高いインディアン――服従的で、こびへつらい、ものまね好きな黒人、あるいは油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種、それらに比べてインディアンはいかに違った光の下に立っていることか。この事実は自然では異なった人種を同一のレベルにランクづけられないことを示していないのだろうか。」(一四四ページ)
以前誰かが、捕鯨反対派の鯨の見方を「海の白人」と言っているのを見たことがあるが、これは私にはかなり違和感がある表現だ。鯨を擬人化したがるのがガイア教の性質であることは確かだが、それは一般的な傾向であって鯨に限った話ではない。なんと言っても地球を擬人化しているのだし。
何よりガイア教徒は一般に自分たち自身が嫌いである。ラッセンの絵画に人間が決して登場しないのは、醜い人間の姿などわざわざ金を払ってまで見たくないからだ。自分たちのイメージを鯨に近づけることは好きでも(アオソラ・ルカさんと愉快な仲間たちを思い出せ)、鯨のイメージを自分たちに近づけたがることはあまりありそうにない。
あえてガイア教における鯨を天使でなく人間で表すならば、「白人」よりも「インディアン」の方がはるかに妥当に思える。本筋を外れるのであまり追及しないが、(ガイア教もその一派に属する)ニューエイジ系のトンデモさんが好意を寄せる時のネイティブアメリカンの記述は、ガイア教において描かれる鯨の姿と瓜二つであることが、ままある。(参考)もちろん、同じ人たちが自分の勝手な理想像を投影しているからそうなるのである。
その流れで南半球に目を向けるなら、オーストラリアやニュージーランドのガイア教徒がアルビノのザトウクジラにアボリジニの言葉で名前を付けるのは、私にとっては極めて自然な現象である。多くの反反捕鯨派が言うような倒錯には見えない。(参考)
どのように客観的にランクづけされようが、黒人はその梯子の一番低いところを占めるに違いないとアガシは断言する。
「すべての人種が同じ能力をもち、同じ権力を享受し、同じ自然の配置を示すと仮定し、また、このように平等であることから、すべての人種が社会において同じ立場で権利を与えられると仮定するのは、偽りの博愛主義であり、偽りの思想であると思われる。そのことは歴史が物語っている。……このアフリカというコンパクトな大陸には、白色人種と絶えず交流し、エジプト文明、フェニキア文明、ローマ文明、アラブ文明の恩恵を享受してきた集団がみられる。……それにもかかわらず、この大陸には、黒人によって統制された社会は育たなかった。このことは文明社会がもたらす利点に対して、この人種はもともと無関心で、無頓着であることを示しているのではないだろうか。」(一四三〜一四四ページ)
アガシは自分の政治的態度を明確にしなかったが、特別な社会政策を提唱してこの論文をしめくくっている。彼によれば、教育は生得的能力にあうようになされるべきだという。黒人には手作業、白人には知的作業というように。
根本的に差異のあるさまざまな人種に対して与えられるべき最良の教育とはどのようなものだろうか。……平等という名目の下で有色人種を扱うよりも、むしろ我々と彼らの間に存在する真の差異を十分に認識し、彼らの中に顕著に印された気質を育てたいと願いながら彼らと交流するならば、彼らに関する人間味ある行動を思慮深く行うことができるであろうということに我々は少しも疑問をもっていない。」(一四五ページ)
「顕著に印された」気質とは、柔順に人に従い、すぐまねをするというものであるが、この表現からアガシが心に抱いたことがどのようなものか、容易に想像することができる。私がこの論文をくわしく取りあげたのは、これが、社会政策の提唱が科学的事実の冷静な探究として述べられている典型的例であると考えたからである。この戦略は今日でも決して死んではいない。
南北戦争のただ中で書き続けたその後の手紙で、アガシはもっと強烈に、もっと長々と自分の政治的見解を示している(中略)。アガシは自分の立場を長い熱烈な四通の手紙で論じた。アメリカで黒人の人口が増加し、永久にそれが続くことをきびしい現実として認めなければならない。立派な誇りに支えられたインディアンは戦いで死ぬであろうが、「黒人は生まれつき、言いなりになる性格ですし、環境に同化しやすく、一緒に生活する人のまねをします。」(一八六三年八月九日)
ほらまたインディアン。今後見てもらう機会があるかわからないが、捕鯨によって「誇り高く死ぬ」鯨はガイア教の大のお気に入りのモチーフだ。そもそもインディアンのイメージが黒人のイメージとかなり違っていた、ということを知っている人は日本じゃあまりいないのではないだろうか。どちらも差別されていた(事実その通りなのだが)としか思っていないのではないかと思う。私も初めて読んだときはかなり意外だった。
法律上の平等はすべての人に許されるべきだが、社会上の平等を黒人に与えるべきではない。でないと、白色人種は黒人と混りあい薄められてしまう。「社会上の平等などいつの時代にも実行不可能だと思います。それは黒色人種の性格からみて当然のことです。」(一八六三年八月一〇日)というのは、「他の人種と違って黒人は怠けもので、遊びずきで、感覚的で、すぐ人のまねをし、卑屈で、お人好しで、きまぐれ、目的が変わりやすく、何にでも夢中になり、ほれこみます。彼らは子どもの心のまま大人の背丈になった子どもと比べうるでしょう。……ですから、社会的混乱をまねくことなしに同じ一つの社会で白人と平等に生活するのはむずかしいと思います。」(一八六三年八月一〇日)黒人は統制を受け、制限されるべきである。社会的特権が無分別に与えられると、あとで不和の種をまくことにならないように。
「資格がないのにそれを使う権利をもつものなどいません。……黒色人種に対して、はじめに余りにも多くのものを与えすぎないよう気をつけるべきでしょう。そうでないと、我々の不利にもなり、彼ら自身の損害にもなるような使われ方をする特権のいくつかをきびしく撤回することが必要となります。」(一八六三年八月一〇日)
アガシにとって、混血によって人種が混りあってしまうことほど恐ろしいことは考えられなかった。白人は黒人と別々になっているから強いのである。「混血は、文明社会での近親相姦が人格の純潔さに対する罪であるのと同じように、自然に対する罪です。……人種混交の考えは、私たちがかかえる困難の自然な解決になるどころか、私にとってはただただ、おぞましく感じられることですし、あらゆる自然な感情の悪用です。……いずれが私たちのよりよい本性、また、より高い文明やより純粋な道徳の進歩と相容れないかを調べる努力を惜しむべきでぱないと思います。」(一八六三年八月九日)
(中略)
最後にアガシは、混血し、弱められた人々の究極の危機を警告するために、強烈なイメージとメタファーを結びつけている。
「もし、この合衆国に、祖先を同じくする国々から渡ってきた雄々しい人々に代わって、白人の血が混った混血人種、ハーフのインディアン、ハーフの黒人など女々しい子孫が住むようになったら、共和国の制度や、ひろく私たちの文明の将来がどうなるか、その重大な変化を少し考えてみまししょう。……私はその結果に身震いを感じます。すでに私たちは、進歩の過程で個人的名声、上流社会で育てられてきた上品さや文化という宝を保持することがむずかしくなるとして、普遍的平等の影響に反対して戦いをいどんできました。もし、これらの困難に、よりはるかに頑固な肉体的無能力の影響がつけ加わったら、私たちの状況はどうなるでしょうか。……いったん、下等な人種の血が、私たちの子どもたちの血の中を自由に流れるようになったら、どのようにして、その下等な人種の汚れを根絶したらよいのでしょうか。」(一八六三年八月一〇日)
アガシは解放された奴隷に法律上の自由が与えられると、人種間にきびしい社会的分離を早急に実施しなければならなくなると結論する。幸い、自然は倫理的美徳をたずさえている。選択の自由を持つ人々は自分たちの生まれ故郷に似た風土の方へと自然に引きつけられる。(中略)純粋な黒人は衰え絶えるような住みにくい北部を離れ、南部へ移住するであろう。「不自然な足がかりしかない北部では、彼らがだんだんと死に絶えることを願います。」(一八六三年八月一一日)
う〜む、150年前だから当たり前とは言えひどいですな。でもただ単にひどいひどいと言ってるだけじゃだめで、この部分はむしろ自分がアメリカに住む白人になったつもりで、たとえばルイ・アガシが自分の曾爺さんででもあるつもりで読んでほしいのだ。このひどさに責任を感じ、居心地の悪さを解消するために、どうにかして汚名返上したいと思った時、一体どうなると思う? 今から頭の体操をしておこう。きっと後で役に立つ。
第三章 頭の測定
ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代
事実を認識している理性的な人は、普通の黒人が普通の白人と同等であるとか、いわんや優れているとは信じていない。そして、もしこれが真実であるとしても、黒人のさまざまな制約が取り除かれ、保護者も制圧者もいないフェアな戦いが行なわれた場合、顎の突き出たこの我々の近縁者が、大きな脳と小さな顎をもったライバルに対して勝利をおさめるとは信じがたい。この戦いは思考が武器であって噛みつき合いではないのだ。――T・H・ハクスリー
(中略)
進化理論は人種単起源論と多起源論の熾烈な論争を支えていた創造論の足場をとっぱらったが、両派の共有した人種差別主義により有効な理論的根拠を提供することになり、両派を満足させた。(中略)人類学史家としてジョージ・ストッキングはつぎのように述べている(一九七三年、lxxページ)。「一八五九年以後この知的緊張関係は、単起源論かつ人種差別主義である包括的進化主義によって解消された。この進化主義は黒い皮膚の未開人をサルの近くに位置づけることによって、人類の単一性を主張した」と。
(中略)
解説用として各グループを代表する個体を選別するとき、全くひどい実例が沢山ある。三十年前、私が子供だった頃、アメリカの自然史博物館の人間展示ホールには、サルから白人へと一直線に並んださまざまな人種の特徴が展示されていた。この時代までは、標準的な解剖学的例示として、チンパンジー、黒人、白人の順にそれらが描かれていた。たとえ、別の個体をもってきて比較すると、違う順序――チンパンジー、白人、黒人――になるくらい白人や黒人の個体変異は大きくてもである。例えば一九〇三年にアメリカの解剖学者E・A・スピッツカは、「著名人」の脳の大きさと形に関する長い論文を発表した。彼は一四二ページにかかげた図(図3・3)を示し、「キュヴィエやサッカレーからズールー族やブッシュマン族への飛躍は、後者からゴリラやオランウータンへの飛躍ほど大きくない」と評した。(一九〇三年、六〇四ページ)。
わかりますよね? 第一の存在の大いなる連鎖が崩れ去ると同時に第二の存在の連鎖にバトンタッチがなされた瞬間です。今回は数字の詳細に分け入っても仕方がないので大幅に省略しますが、要するに一生懸命脳の大きさを測定しては、いろんな偏見に基づく操作を加えて、やっぱり白人の脳は大きかった! 白人は進化した人類だったのです! だから(以下略)! めでたしめでたし、とかいうことをやっていたわけです。あと、別に言わなくても忘れないだろうけどこの脳の図を憶えておくといいことがあるでしょう。もうちょっとだけ続きます。(つづく)
おまけ
ちなみに私は当時の分類では「油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種」でございます。
■ガイア教の天使クジラ21
第二章 ダーウィン以前のアメリカにおける人種多起源論と頭蓋計測学
白人より劣等で別種の黒人とインディアン
秩序は神の第一法則だ、それを明らかに語るならば、
人間に大小・貧富・賢愚のあるのは当然であるアレキサンダー・ポープ『人間論』(一七三三年)(岩波文庫版より)
現存する社会の階層は正当なものであり、必然的なものであるとするために、理性に、あるいは宇宙の本質に訴えることが歴史上しばしばなされてきた。そうした階層が数世代以上も続くことは稀であるが、その議論は社会制度が改められると、磨きなおされて再登場し、こうして、果てもなく繰り返される。
まったくですな師匠。ガイア教の後には一体どんな議論が現れるのだろうか? 私は生きているうちにそれを見たい。きっともっと面白いに違いない。
自然に基づいて階層を正当化しようとした動き













