■ガイア教の天使クジラ33
前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。
第一章 イルカに関する新学説の展開
イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。
これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。
アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。
(中略)
私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。
私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。
リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。
後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1
それにしてもイルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。我々は彼が作った*2世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。
少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。
十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。
この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い生物」の属性と見なしていることは明らかである。*3これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること(第24回)を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。
皮肉ではあるが、彼の言うとおり時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように(第23回)、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化してその時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。
このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っているわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば互いに遙かに似通っているのだ。
第二章 実験で得られた新学説
セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。
グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名かもしれない人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。
後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」(第23回)を感じてしまう場面である。
『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L'Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。
いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。
逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。(つづく)
*1:もっとも今回の文脈では学問と文化の区別は必ずしも明白ではないのだが。このことも、もう実例を見てもらって納得してもらうしかない。
*2:重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を。
*3:仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾しないような「お堅い」動物(実際にそういう動物は珍しくない)だったらそのエピソードを同じように本で取り上げただろうか。
おまけ
イルカ→ジャンプ→飛び込み
■ガイア教の天使クジラ32
歴史上存在した生物の由来に関する理論は、創造論と進化論のふたつだけというわけではない。もちろんそれは最も重要な境目には違いないが、『種の起原』が出版されたと同時にスイッチが切り替わるように前者が後者に置き換えられ、以後そのままであるかのような印象を抱いているなら誤りだ。
それはあくまで第28回で少し触れたような、我々が歴史を理解しやすくするために必要な簡便法に過ぎない。実際には、生物学が聖書を捨て去ってから現代の進化論にたどり着くまでには様々な紆余曲折があった。
その中で今回の話は、進化論の歴史に常につきまとってきた、今日でも完全に消え去ってはいない根深い一つの誤りに関係がある。
なんだか大げさな話になってきたように聞こえるだろうが、そんなに身構えることはない。実はそのことに関する話はすでに大部分終わっているからだ。
その間違いとは、第2回からずっと注目してきた2番目の存在の大いなる連鎖の時代の考え方、つまり「生命は下等な生物から始まってより高等な人間を目指して一直線に進化の階層を向上してきた。」とする見方である。
この人間中心の進化観では“万物の霊長”たる人間のような、大きな脳を持ち、高い知能と高度な精神を有する生物に到達することが、良いことであり、進化の目標であると考える。
したがって、人間が属する哺乳類は“進化の進んだ高等な生物”であり、他の生物も、
- 人間に似ているか?
- 人間の祖先に系統が近いか?
- 人間のように脳が大きいか?
という基準に従って、鳥類・爬虫類・両生類・魚類の順でより“進化の後れた下等な生物”であると、一直線的にランクづけされることになる。
では、一度も人間の先祖であったことのない鳥類は、なぜ爬虫類の上・哺乳類の下にランクづけされるのか? 鳥類は、哺乳類と同じく爬虫類を祖先に持ち、人間の属する哺乳類と同じく温血だから、爬虫類より「高等」である。しかし、どう見ても哺乳類より脳が小さく頭が良くないので、哺乳類よりは「下等」である。
現在の地球で最も多種多様な生態学的地位を占め、圧倒的な繁栄を謳歌している節足動物(昆虫*1など)が、なぜ魚類より下にランクづけされるのか? そりゃあ人間と類縁のかけ離れた、脳と呼べるほどのものさえ持たない虫けらだから「下等」に決まってるだろう。もちろん全く脳など持たない植物はさらに「下等」である。
うむ、偶然だけど(笑)科学以前から人間が抱いてきた先入観ともピタリ一致するな。でも客観的な科学がそう言うんだから仕方ないね。これで安心、めでたしめでたし。
……とまあ、このような今日の視点からすると非常に人間中心的・目的論的で、単なる偏見と宗教的ドグマの影響を受けまくりの素朴な進化観は、意外に最近まで大手を振ってまかり通っていた。そして多くの社会政策にまでも直接・間接に影響を及ぼした。その一部はこれまでも見た通りだ。
生物学が様々な技術・理論の進歩によって進化の本当の仕組みを知り、真の系統樹を突き止め、実際の生物界の多様さを理解するようになって、このような見方を脱却したのは、本当についつい最近の出来事なのである。
このあたりの話は非常に面白くかつ重要なことなので、どんなに詳しく取り上げてもやり過ぎということはないのだが、それではいつまで経ってもここから先に進めないので、興味がある人は独自に勉強してほしい。私はここでリリー博士に戻ろう。
さて、第一次世界大戦中に生まれ、歴史上第2と第3の存在の連鎖間の橋渡しを主導する役割を果たした彼は、もちろん自分自身の片足をまだこの第2の連鎖の考え方に突っ込んでいる。(他のどこに突っ込めというのだ? 創造論か?)
そろそろ次の展開が予想できるだろう。この言わば一つ古いバージョンの進化論に基づいて考え直せば、博士のイルカ・クジラに対する推論は、俄然違った色彩を帯びてくるのである。やる気がある人は次の段落に進む前に前回の引用部をもう一度読み直してこよう。
進化というのは人間のような大きな脳・高度な知能を目指して前に進むものである。したがって、人間よりも大きな脳を持つクジラ・イルカは、当然人間よりも知能が高く・進化の進んだ生物である。そしてクジラ・イルカより小さな脳しか持たない人間は当然クジラ・イルカより知能が低く・進化の後れた生物である。これは全く自明の単なる事実である。推論ですらない。
「進化が進む」とは万物の霊長たる「人間に近づく」ことと同義である。したがって、近づくどころか人間以上の大きさの脳にまでに進化が進んでいるイルカは、当然話ができる。そうでなければおかしい。人間は話ができるからだ。イルカに話ができないように見えるとすれば、それは人間の方に知能が足りないからだ。*2全く自明の理である。そうでないなんてことはありえない。それは進化論に反する。
イルカ・クジラは高度な思考や推論を働かせている。なぜなら人間はそうしているからだ。そうでなければ理屈に合わない。イルカ・クジラは高度な道徳や倫理を持っている。なぜなら人間が――鯨類に比べれば不十分とはいえ――そうだからだ。全く自明の(以下同文)。イルカ・クジラは口承伝承を子孫に教え込んでいる。なぜなら人間が(以下略)。
どうだろう? あなたの想像力が十分なら伝わるだろう。このぞっとするような首尾一貫性が。自分の常識とまったく相容れない別の一貫した体系というのは不気味で怖ろしく感じるものなのだ。この恐怖と引き替えにいくつかの教訓を得ることができよう。
まずひとつ目の教訓としては、イルカの知能なんて割とどうでもいい――と言ったらリリー博士には怒られるだろうが――話題ですらこんなにも不気味に感じるのだから、それが社会の安定・宇宙の運命・自分の永遠の魂に関することだったらどうかは、もう言うまでもないだろう。
過去あるいは現在の宗教紛争がどんなに無茶苦茶で非道に見えたとしても、安易に「狂っている」だなんて言うべきではないということだ。(第8回)それは自分の想像力不足による思考停止の責任を相手に押しつけているだけだ。
ふたつ目の、より重要な教訓は、人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるかということだ。
彼ほど「人類は人間中心のものの見方から脱却しなければならない! 人間だけが偉いという古い思い上がったドグマを捨てなければ人類に未来はない!」と熱心に説いた人もいないというのに、その彼の思想の前提となっていたのは、率直に言って今日のどこの中高生にも劣る、どうしようもなく人間中心的な生命観・進化観だった。
なんともやりきれない話だ。*3これはガイア教が抱える多くの“ねじれ”の中でも最大のもののひとつで、リリー博士から学ばなければならないもっとも重要な教訓でもある。
例によって、私たちがこうして「教訓を学ばなければならない」などと言って上から目線で見ていられるのは、21世紀の後知恵でハリネズミのように武装しているからに過ぎないということを忘れてはならない。
こうした考察に接すると、義憤にかられ、人間であることに罪悪感を覚える科学者や篤志家もいることだろう。だが、この地球上でこうした現状を認識しているのはごく限られた人びとでしかないことを思えば、現状が変革されるとは思えない。十分な知識を備えた人びとはいくらかはいるだろうが、もはやクジラ類の殺戮を止めることはできないし、クジラ類との協調を図り、彼らとコミュニケーションを取ろうとする新プログラムに着手するとしてもいまとなっては手遅れである。
本書はこうした著者の学説の基盤を説明し、現状を可能なかぎり詳しく報告しようとしたものである。著者としては、本書の内容が広く知られ、クジラ類とのコミュニケーションの研究プログラム発足の手助けになってほしいと思う。こうしたプログラムを組み立てれば、クジラ類の正体を明らかにし、その思考を解明し、彼らの話の内容を理解することができるようになる。プログラムの発足を公表し、研究結果を発表すれば、殺戮を止めさせることもできるだろう。その時になってはじめて、クジラ類を教育し、クジラ類から教えを乞うという人間の欲求が実を結んで、新しい学校や産業、政府が生まれることだろう。そこで本書では、現在までにわかっている事実を紹介し、人間とイルカとが種の違いを越えて将来協力し合うための指針を提案することにする。
次の世代の人間が、異種間コミュニケーションこそは、おそらくは現在の地球が直面している最も偉大で高貴な試みなのだと認識してくれれば幸いである。現状を打破して、他の種の動物の思考、感情、行動、言語を理解できるようになることは、人間や地球の概念をも変える偉大で高貴な行為である。地球の表面の七一パーセントは、クジラ類の棲む海で蔽われている。いまこそこの地上の七一パーセントとのつきあい方を学習し、知性と感受性に富み、長い年月を生き抜いてきたイルカ・クジラ類となごやかに共生するすべを学ぼうではないか。
これはちょうど前回の引用部の直後に続くものだが、我々よりリリー博士に生きていた時代が近く、21世紀の後知恵を知る術もないが、
義憤・罪悪感・篤志・ごく限られた人びと・変革・新しい政府・偉大・高貴・打破・共生
などという言葉は現在と同じく大好きだった当時の人々の耳に、この声がどのように響いたか、想像に難くないはずだ。山場は過ぎたもののリリー博士からはまだまだ学ぶことが沢山ある。(つづく)
*1:神学者から、生命の研究から読み取れる神の性質はどのようなものかと尋ねられた、生物学者J.B.S.ホールデンは「甲虫に対する法外な溺愛」と答えた、という有名なエピソードがある。
*2:「彼らはおそらくかしこい。しかし、それを解明できるほど人類はかしこくない」
*3:ただし、別の、より楽観論的な見方をすれば「時代の進歩に応じてどこの中高生でも昔の天才以上になれる。」ということだから希望のある話と考えることも可能であろう。これはコップの水が半分しか入っていないのか、それとも半分も入っているのかというのと同じ話で、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという類のものではない。
おまけ
人類に未来はないつながり。
■ガイア教の天使クジラ31
ではまた『イルカと話す日』の続きから始めよう。次の部分はちょうど第29回の引用部分の直後に続くものである。ガイア教徒の鯨類に関する中心信条とでも言うべきものなので、憶えておくと今後様々な機会に役に立ってくれるだろう。
機会があれば後で実例もお目にかけるが、驚くべきことに――そろそろ驚かなくなってきていてもらえると嬉しいのだが――今日時点ですら、これをほぼそのまま信じている人は大勢いる。
このような考察を推し進めていけば、イルカとクジラについての新しい学説が生まれる。
- クジラ類の脳の大きさは大小さまざまだが、最も小型の脳を持つクジラでも類人猿と同程度の思考力を持っている。
- 人間と同じ大きさの脳を持つクジラ類(ハンドウイルカなど)は、人間と同じ思考力を持ち、人間と同じ程度に過去と未来に思考をめぐらせて現状を判断することができる。
- 人間よりも大きな脳を持つクジラ類(シャチ、マッコウクジラなど)は人間を凌ぐ思考力を持っており、人間以上に遠い視野で過去や未来を見つめて現状を考えることができる。
- 現在の人間が共有しているクジラ類に関する知識は、あまりに不完全である。クジラ類の知性と思考力についての人間の知識は初歩的で不十分であり、クジラ類を絶滅から救う必要性についての認識も欠けている。しかも人間は、クジラ類が認識している地球環境の実態すら理解できずにいるのである。クジラ類がこうした認識を持っていることは、遠い昔に彼らが生き残りをかけて決断を下したことから明らかである。クジラ類は少なくとも人間同様に巧みに環境への適応を果たしてきたし、しかも人間が地上に出現してからの期間の少なくとも二〇倍もの時間を生き抜いてきたのである。
- クジラ類は繊細で豊かな感受性を持ち、倫理観にすぐれ、思慮深く、古代から伝わる「肉声による」歴史を持っていて、これを子孫に教えこんでいる。
- クジラ類の人間に関する知識は、海上で船舶やヨット、キャッチャーボートなどと遭遇したり、戦った経験に限られている。陸上で人間と接触したあと、海に戻ってきたクジラ類はきわめて少ない。したがって海の中での人間とのコミュニケーションや、人間に関する知識は不十分なものである。クジラ類が人間に関する知識を獲得するのは、捕鯨についての体験と情報交換、イルカの捕獲、海中での爆発、原油の流出、コミュニケーションの妨げとなる船舶の航行音とスクリュー音、潜水艦と戦闘機を使った海上での戦争によるクジラ類の殺傷などの事柄を通じてである。
- クジラ類は人類が非常に危険な存在だということを知っている。こうした考えを持っているために、クジラ類はたとえ極端な挑発をされても、倫理的に行動し、人間の身体を傷つけたり、破壊したりしない。もしクジラやイルカが水中で人間を傷つけたり、殺しはじめるようなことがあれば、彼らは間違いなく、人間が海軍を使って、捕鯨産業よりも素早く自分たちを滅ぼそうとするだろうと考えているのである。
- したがって、クジラ類は断片的ではあるが人間についての知識を持っており、その知識を使って直接的な体験から理論を引き出し、推理を働かせていると思われる。またその推論の方法は、人間がクジラについての知識を形成するやり方と同様であると考えられる。文字や具体的な記録を持たないにもかかわらず、クジラ類はおそらくその巨大な脳のおかげで、並外れた記憶力を持っており、記憶を統合する能力は人間並みかそれ以上のものがあるのである。
- 古生物学上の証拠を見れば、イルカ・クジラ類は人間よりもはるか以前から地球上に生息していたことかわかる。イルカ(現在のハンドウイルカ)類はおよそ五〇〇〇万年前に地球上にあらわれ、脳の大きさも現在の人間並みかそれを上回っていたようだ。特定の種類のクジラやイルカの脳が、現代の人間と同等の大きさに達し、それを上回るようになったのはおよそ三〇〇〇万年前のことらしい。ヒトの頭蓋骨で、現代人と同じ脳容積を持ち、完全な形で多量に見つかるのはわずか一五〇万年前のものである。つまり、人間は地球上ではいまだに進化の過程にある新参者であることがわかる。人間はクジラ類ほど長期にわたって地上に生息することはできないかもしれない(しかも人間は次の世代かその次の世代でクジラ類を絶滅においこんでしまう可能性すらある)。
……ううむ、なんとも凄まじい推し進め方だ。確信者にしか持ちえないこの圧倒的なパワー、何度読んでも目眩がしそうになる。私が、初心者をいきなりこれに触れさせることを危険と判断し、シリーズの最初の方に持ってこなかった理由を、少しは理解していただけるようになってきたのではないかと思う。
もちろん21世紀の後知恵でもって、これをバカげた妄想と斬って捨てるのは容易い。しかし、それでは重要な歴史の教訓を見逃すことになるし、彼が後世に与えた影響力について正しく認識することもできない*1。またかなり長くなると思うが、しばらくこれに真剣に取り組まなければならない。
リリー博士の思想には、この本の上記部分以外にも、他の本にも「イルカ・クジラは人間よりはるか以前から地球環境に適応して暮らしてきた、進化の進んだ先輩であり、進化の過程にある新参者の人間が教えを請うべき存在である。」という見解が繰り返し繰り返し現れる。これは一体どういう意味なのだろう?
私は読者に中学の理科程度の知識は前提として期待しているが、おそらく意味不明だと感じるはずだ。*2「人間は進化の過程にある」ことまでは認めてもよかろう。(そうでない生物がいるとでも?) しかし、新参者とか先輩というのは一体なんなのだ? 普通*3の進化に関する理解では、
ひとつ、今日生きている全ての生物――異星文明からやってきたというリリー博士を例外とすればだが――は、全生命の共通祖先から始まって同じ*4三十数億年間の進化をして現在に至っている。どちらかが、たとえ一日でも進んでいるとか後れているとかいうことはありえない。
ふたつ、今日生きている全ての生物は、全て自らの生きてきた地球環境に適応してきた。適応できなかった生物は死んで、もういない。進化というのは突き詰めればそれだけのものだ。*5「ある生物がある期間、特に進化しなかった」ということは、単に「その生物がその期間、特に進化を起こすような淘汰圧に晒されなかった」というだけのことでしかない。
みっつ、5000万年前とか3000万年前とか150万年前とか、あるいはどんな数字であろうとも、それはたまたま発見された、特定の化石の年代を元に人間が決めた、人為的な区切りであるに過ぎない。
イルカやクジラがこんな姿をしていた4,5千万年前にも人間の祖先は(多くのサルとの共通祖先として)暮らしていたのだし、「人類が地球に現れたのはつい最近(あるいは大昔)の△△△万年前である」というような言い方は、全く恣意的なものに過ぎない。
人類進化の研究において便宜的に区切りをつけなければならないという文脈ならばともかく、全く系統の異なる鯨類と比較してそのようなことを言っても、話者がそのように見たがっている、という以上の意味はない。
たとえば彼の研究当時、ルーシーはまだ発見されておらず、アウストラロピテクスは初期人類として理科の教科書に載ってなどいなかったが、その発見によって人類は以前よりクジラを尊敬する度合いを減らしてもよくなったのか? 仮にアウストラロピテクスが人類の祖先でなかったと判明したら、もっとクジラを尊敬しなければならなくなるのか?
5000万年どころか、何億年も形態を変えずに生きてきたシーラカンス・カブトガニ・ゴキブリ・バクテリア*6に教えを請わないのは、彼らのあまりにも偉大すぎる調和は人間ごときには畏れ多いからだってのか?
馬鹿な。このような議論をいくら続けても意味がない。明らかに間違っている。私たちの彼に対する理解が、だ。
リリー博士はどこからどう見ても進化論否定論者ではないし、未来の弟子と違ってイルカがシリウスからやってきたなんて考えていないし、自分に関しても少なくとも肉体は進化してきたものであることを否定したりしていない。
ならば、これらの基本的な事実については、程度の差はあれど私たちと同様に認識していたはずなのに、どうしてまるっきり話が通じないのか? 概ね同じ知識を元に全く異質な結論にたどり着くとしたら、違っているのは途中の過程である。
私はこれから、このような現代の常識からはどう見ても狂っているとしか思えない考えに、当時はそれなりの、おそらくあなたの想像以上の整合性があったことを示そうと思う。
答えから言ってしまうと、実は、当時のリリー博士が前提として考え・話している進化論は、今日中学・高校で教えられている進化論とは実際にかなり異なったものなのである。(つづく)
*1:それができないと結局それを埋め合わせるために、あるはずのないものを探して、また食肉業界がどうとかCIAがどうとかいう陰謀論にはまることになる。
*2:もし「わかる!」という人がいたら自分はいささかヤバいことになっていると気づいていただきたい。まだ間に合ううちに。
*3:この言葉を使うときは、いつどこの誰にとっての“普通”なのかよくよく考える必要がある。
*4:厳密に同じ! このことにはトンデモでない畏敬の念を持っても許されると私は思う。
*5:だから生命から意味が奪われるのを嫌がる創造論者は「適者生存などというのは何も意味してないトートロジーだ!」と言って進化論を否定したがる。なんでそれで否定したことになると思えるのか私にはわからないのだが。
*6:あまり関係ないが、スティーブン・J.・グールドは「地球は過去も現在も未来もバクテリアの惑星である」というような言い回しを好んだものだった。
おまけ
魚類つながり。神ゲー海腹川背の神プレイ。
■ガイア教の天使クジラ30
前回で、ついに“脳”を介して歴史上の三つの大いなる存在の連鎖が全て一本に繋がるところまで来た。いい機会なので少し俯瞰してまとめてみよう。
いつの時代も、少なくとも何万年という長きにわたって、ずっと変わらないものがある。それは自分と自分たちの共同体が、宇宙の中で特別の歴史を持ち・特別の使命を帯び・特別の地位を占めていると信じたい人間の心である。
しかし、それは直接目に見えるものではないので、もっと変化しやすい物事を通して間接的にしか現れない。それはある時代には、
- 我が部族は大地の誕生と同時にその裂け目から飛び出た偉大なる雄牛の子孫である
というような神話の形をとって現れ、またある時代には、
- 全能の父なる神が御自身の姿に似せてアダムとイヴを創られた
という宗教の形をとって現れ、またある時代には、
- 生命はアメーバから人間に向かって一直線に進化の階層を駆け上がってきた
という学説の形をとって現れ、またある時代には、
- 人類は進化史上のある時期イルカやクジラと仲良く水の中で暮らしていた
という珍説の形をとって現れるのだ。
これは私見だが、どうもある時期から一方的にショボくなっていくばかりみたいだな。この凄まじい喪失の埋め合わせが、誰かをナチ呼ばわりしたり・漁網を破ったり・酪酸をぶつけたりする程度で済んだら、奇跡に近い僥倖だと思わないか?*1
今日の鯨類に、時に人間以上の地位にすら登るという離れ業を可能にさせたのは、もちろん単一の要因などではなく、すでに言及したこと・まだ言及していないことを含め、必然・偶然の様々な要素がロイヤルストレートフラッシュのごとく絶妙に噛み合った結果である。
しかし、その中でも一番重要な絶対不可欠の要素が“大きな脳”であったことは、間違いないと言ってよいだろう。
脳科学・神経科学は、半世紀前とは比較にならないほど進歩した*2今日でさえ、まだまだ発展途上にある。十分満足できる信頼のおける情報が与えられているとは到底言えず、いまだ半世紀前と同じく理性と神秘の境界線上に載ったままである。
それゆえ、脳の写真には今日にもいまだ「魔力」がある。(参考)21世紀の人間にとってさえもそうであるのなら、リリー博士をはじめとする当時の人々がこの「魔力」の前に為す術もなかったとしても、いったい何が不思議なのだろうか。
リリー博士の生まれた時代に注意を向けるように以前伏線を張っておいたが、1915年といえば第一次大戦中だ。ヒトラーが伝令として戦場を駆け回っていた頃だ。
リリー博士は脳をこの世で最も精妙な装置と表現したが、その脳について確実にわかることといったら、限度を超えた力でぶん回せば豆腐みたいに潰れるというぐらいのことだった。(そうでない物体があるとでも?)
彼が脳について定量的に何か言うために使える基準は、19世紀の学者達にとってそうであったのと同じように、容積ぐらいしかなかった。それ以外にできることと言ったら、顕微鏡で脳細胞を覗いてほとんど違いがない*3と確認することぐらいだった。
さて、ここで何にでも優劣をつけたがる人間の性向に迎合して、あえてどちらかが狂っていると決めなければならないとしたら、狂っているのはどちらだ?
時代精神に則って自分の想像力を少々飛躍させただけのリリー博士か? それとも、現在の自国の常識がいつでもどこでも通用すると思っている我々現代日本人か? 個人的には断然後者の見方を支持したいね。狂っているのは我々の歴史に対する感覚であって、彼らの頭ではない、と。(つづく)
*1:私は自分をほとんどあらゆる事柄に対して楽観論者だと考えているが、奇跡を期待する気にはなれないのだ。
*2:余裕があったら、wikipediaに記載されている知見・研究手法の中で、当時のリリー博士に利用できたものがどれだけあるか数えてみると面白いだろう。
*3:当たり前だ。細胞が顕微鏡で見て一目瞭然に違うようなら、イルカはシリウスから来たという主張を真面目に検討しなければならないところだ。
おまけ
ヒトラー→独ソ戦
■ガイア教の天使クジラ 中間テスト
しばらくの間、全く無関係ではないとはいうものの死刑問題に浮気していたり、やっぱりもうちょっと年代順を続けた方がわかりやすいかと思って構成を変更していたりと色々事情があってずっと停止していましたが、そろそろガイア教シリーズを再開しようとしています。
しかし、やはり最速でも週一・週二ぐらいしか更新できないので、待ち時間に使えるクイズ集を作ってみました。これは学校の試験ではありません。正解を出すことよりも自分で考えるのが目的です。本編の展開にもよりますが、問題によっては最後まで答え合わせがないかもしれません。
問題の難易度も、ググれば一発のものから、出題者の正気を疑うところから始めないとどうにもならないものまで様々です。必ず正解を出さなければいけないなどとは思わず、わからないならわからないなりに考えることを楽しんでください。
他人の答えを見てからでは意味がない問題も多いので、回答はここのコメント欄に書いたりはしないでください。私に見せたい人はメールでください。メール欄は左下にあります。シリーズはまだ最低でも数ヶ月は終わらないので、慌てずゆっくり挑戦してください。
第1問
いわゆるガイア理論を世に問うた最初の本、ジェームズ・ラヴロック『地球生命圏 - ガイアの科学』の日本語版翻訳者スワミ・プレム・プラブッダさんはどこの国・地域の人?
- インド
- ネパール
- チベット自治区(中国)
- 日本
- アメリカ
第2問
『イルカと話す日』巻頭のエピグラフにある2つの引用句。ひとつめはアインシュタインの言葉です。ふたつめの出典を予想してください。検索その他調べ物は禁止です。ドンピシャで当てるのはエスパーでもない限り無理なので、方向性さえ正しければ正解とします。
第3問
いわゆる白人国家でも、いわゆるキリスト教国でもない国の中で、最もガイア教が盛んな国はどこでしょう? 検索その他調べ物は自由です。
第4問
次の職業に貴賎をつけ、尊い方から卑しい方に向かって順に並べなさい。
- 農夫
- 猟師
- 漁師
- 木こり
第5問
ヨーロッパ人になったつもりでもう一度答えてください。日本人読者を想定しています。もし読者がヨーロッパ文化圏の人間である場合は、前問の答えをこちらに写し、前問を日本人になったつもりで答えてください。
- 農夫
- 猟師
- 漁師
- 木こり
第6問
キリスト教のミサでは、神父はどんな動物を殺して生贄に捧げ、どんな薬物を使ってトランス状態に入り、どんな呪文を唱えて雨を呼びますか?
第7問
日本神話『山幸彦と海幸彦』の兄弟ゲンカ。勝ったのはどちら? ただし、知らない場合は調べずに「知らない」と解答してください。
- 山幸彦
- 海幸彦
- 知らない
第8問
前問で「知らない」と答えた者は、知らないなりに、どちらが勝ったと思うか予想して答えてください。知っていた人は「もし知らなかったらどちらが勝ったと予想したと思うか」を想像して答えてください。
- 山幸彦
- 海幸彦
第9問
第12回で取り上げた『クジラの歌が聞こえる』のクレアが病院で目覚めて以降の結末部分を換骨奪胎して、日本人好みに書き換えてください。一字一句書き換えなくても「大体こんな感じ」程度でよいです。鯨の竜田揚げ食わせろと言っているわけではありません。変えるのはニュアンスです。内容まで変えてはいけません。
第10問
肥満や糖尿病の蔓延する社会を是正するため、ケーキ屋さんが国会議員になったり議員がケーキを食べたりするのを禁止したいと思います。どう思いますか?
第11問
このシリーズの主人公と言うべき生物はもちろんクジラ・イルカですが、それに次ぐ、シリーズの副主人公とでも言うべき立場の生物は何になるでしょう? ただし、「人間」という答えは除きます。
第12問
第25回で予告したプロのガイア教徒4名。その最後の一人の著書の中で最も厳しい調子で非難されている国が2カ国あります。うち一国は日本ですが、もう一国はどこでしょう?
第13問
第17回の「ニューイングランドという地名との誰も予期できないような意外な形での再会」。無理だと思いますがどんな形での再会か予想してみてください。
第14問
リリー博士の後で、彼らとその仲間たちのトンデモに騙された著名な科学者・作家とその言動を織り交ぜて紹介していこうと思っていますが、それに誰が含まれているか3-4人程度予想してみてください。
第15問
そんな考え方をする必要はないですし、するべきでもないと思いますが、あえて単独の組織を反捕鯨精神の中枢と考えなければならないとしたら、どこだと思いますか?
第16問
今から30分間、理性の働きを全て停止し、本能のままに見聞き・思考し・行動してください。安全確保については自己責任でお願いします。
第17問
あなたは神です。(おおむねユダヤ・キリスト教的な唯一神教の神を想定してください。)ぶっちゃけ、今の世の中、どうですか?
発展課題
次の物事について調べて、思うところを述べてください。
- カトリックで聖人を認定するための手続き
- 「ラプラスの悪魔」あるいは「ラプラスの魔」と呼ばれる概念
- くじら座(星座)
アンケート
「はい」・「いいえ」で答えてください。回答がない場合は全て「いいえ」として取り扱います。
- あなたの回答内容を今後のシリーズで引用するなどの利用をしてもいいですか?(「はい」と答えてもするとは限りません。)
- はいと答えた人は、その際ハンドルネームを出してもいいですか?(「はい」と答えても出すとは限りません。)
- あなたの回答内容に関してシリーズの進行を待つだけでなく、メールで何らかの返信を望みますか?(「はい」と答えてもできるとは限りません。)
ついでのお願い
後半の息抜き用と単なる趣味で「サブカルチャーに現れたガイア教的要素」を収集中です。なにか知っていたら教えてください。(例:『絢爛舞踏祭ザ・マーズ・デイブレイク』というアニメにイルカがクルーとして登場するらしい。)日本以外でもよいです。
おまけ
ゆっくり考えていってね!!!
■ガイア教の天使クジラ 目次
このエントリはガイア教の天使クジラシリーズのポータルページとしてwiki的な使い方をしています。
シリーズ本編
| 通し番号 | 主な内容 |
|---|---|
| 第1回 | 個人的回想と主題の提示。 |
| 第2回 | “存在の大いなる連鎖”の概念とその変遷について。 |
| 第3回 | 反捕鯨は食肉業界の陰謀でも文化帝国主義でも人種差別でもないこと。 |
| 第4回 | 反捕鯨は科学や論理的整合性の問題ではないということ。 |
| 第5回 | 金儲けのための宣伝や政治利用を批判するのが論の目的ではないこと。 |
| 第6回 | 活動家の熱意は金や名誉ではなく正義感と宗教的情熱でしか説明できないこと。 |
| 第7回 | 反捕鯨運動はまったく文字通りの意味で宗教であるということ。 |
| 第8回 | 現代日本人は宗教を不当に軽視しすぎているということ。 |
| 第9回 | 野崎友璃香『イルカのアヌーからの伝言』 |
| 第10回 | 水棲類人猿説(アクア説)と鯨類崇拝。 |
| 第11回 | お手製(?)中世ヨーロッパ風宗教説話。 |
| 第12回 | ビクター・ケラハー『クジラの歌が聞こえる』 |
| 第13回 | 現在のほとんどの反捕鯨批判は的を外しているということ。 |
| 第14回 | シーシェパードは“海の犬”ではない。 |
| 第15回 | 時間旅行への招待。 |
| 第16回 | ダレン・オルドリッジ『針の上で天使は何人踊れるか』 1/2 |
| 第17回 | ダレン・オルドリッジ『針の上で天使は何人踊れるか』 2/2 |
| 第18回 | 捕鯨・反捕鯨問題の持つ意義と個人的思い入れ。 |
| 第19回 | 人種差別と反捕鯨の関係は複雑で、一言で済むような簡単な答えはないこと。 |
| 第20回 | スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 1/4 |
| 第21回 | スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 2/4 |
| 第22回 | スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 3/4 |
| 第23回 | スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 4/4 |
| 第24回 | 1950年代後半から1960年代の社会・思想状況の概観。 |
| 第25回 | ガイア教史上最重要人物ジョン・カニンガム・リリー。 |
| 第26回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 1/? |
| 第27回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 2/? |
| 第28回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 3/? |
| 第29回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 4/? |
| 第30回 | 狂っているのは我々の歴史に対する感覚であって彼らの頭ではない。 |
| 第31回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 5/? |
| 第32回 | 人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるか。 |
| 第33回 | ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 6/? |
その他のページ
おまけ
このページはおまけもたまに変える予定。
■ガイア教の天使クジラ29
前回に続き『イルカと話す日』を読み進めよう。今回はいよいよ我々がリリー博士から学ばなければならないことの核心に迫っていく。
ここで現在、人間が論争しているクジラとイルカに関する二通りの考え方を比べてみたい。
最初の考え方は十九世紀の生物学から生まれたものだが、これは脳の構造と脳のはたらきについて多くの発見がなされる前の考え方である。脳の重さや体重が測定され、体長が測られ、クジラ類(そして陸生の哺乳類)の脳の重さや体重、体長からさまざまな計算が行なわれる。(中略)特定の動物においては脳のサイズが大きくなるにつれ、単純に比例して体のサイズも大きくなることが明らかになった。
しかし、このプロット作業には、妥当性の証明されていない単純な仮定が紛れ込んでいる。つまり大きな体は大きな脳を必要とするという仮定である。したがって、脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではないのである。実際には、地球の進化の過程において、なぜ大きな脳を持つ、大きな体の生物が生き残り、なぜ大きな脳を持つ、小さな体の生物が生き残らなかったかという点が問われたことはなかった。現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。
このあたりだけ見ると、実にまともなことを言っているように聞こえる。「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」? うん、それはそうだ。現代でも通用する立派な考え方だ。
たとえば、ネアンデルタール人の脳は現生人類よりもかなり大きかったことがわかっているが、ネアンデルタール人たちがみんなフォン・ノイマンより頭がよかったかというと、そういうわけでもなさそうである。
ただし「大きな体は大きな脳を必要とするという仮定」は、結論から言うと正しかった。今日から振り返って見ると当たり前に思える。どんな動物でも脳の大部分は全身の維持管理という、言わば日常業務に使われているのだから。*1
そんなことは別にこの時代にも予想のできないことではなかったはずであるが、リリー博士は「現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。」ことがこの仮定を支持するとは考えなかった。
おそらく「クジラの脳が大きいのは体が大きいからだ(駄洒落にあらず)」という結論になってしまうのは面白くなかったからだろう。これに代わってリリー博士が注目したのは“回転力”*2だった。
二十世紀になってようやくわれわれは、脳の構造の、それも大型の脳の構造の、信じられないほどの精妙さと脆さとを理解するようになった。(中略)第二次世界大戦中、頭蓋に強度の回転力が加えられると、それが原因となって脳が損傷を受けることがわかった。(中略)これらの点を考察すれば、小型の身体と計量の頭蓋とに包まれた大型の脳は、大変傷つきやすく、重力と身体の動きから生まれる回転力とにさらされている地球上ではいずれ淘汰されてしまうということが明らかになる。(中略)イルカは泳ぐ場合も、泳ぐ方向を変えたり体の向きを変える場合も、動きが素早く、加速も速い。それに対して大型のクジラは動きが緩慢で悠々としている。(中略)クジラ類に関するこうした問題にニュートンの回転力学を応用することは、他の知識に比べて立ち遅れている。
脳研究にもっとニュートン力学を応用すべし!(爆)
さすがにこれは当時の基準をもってしてもあまりまともとは言えないであろうが、ここで実感してほしいのはリリー博士のトンデモなさではない*3。ここ半世紀の脳科学・神経科学の途方もない進歩によって、我々の常識はすでに半世紀前のそれとかけ離れたものになってしまっているということだ。
それにしてもですよ、いくら常識が現在とは違うとはいっても、なんぼ何でも不思議とは思いませんか? いったいどうして彼らはこんなに苦心してまでイルカ・クジラの知能を高いと見積もる理屈を探さなきゃいけなかったんでしょう?
犬が三頭並んで犬ぞりを引っ張っても「おお、このような協調には緻密なコミュニケーションが不可欠だ! 犬は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて思わないのに、どうしてイルカが三頭並んで泳ぐとそう思ってしまうのだろう?
鳥がどんなに精妙なダンスを踊り、美しい歌を歌っても「おお、なんと優雅で美しい! 鳥は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて絶対に思いやしないのに、どうしてイルカの跳躍やクジラの歌には人間以上の知恵を見て取らなければならなかったのだろう?
不思議だと思うでしょう? しかしね、いくら宇宙が果てしなく複雑だとはいっても、今の世の中、素人が簡単に手を出せるようなところにそうそう不思議なんて残ってはいないんですよ。彼らにはもちろん必要があったんです。それも切実な必要が。
"Seeing is Believing"(百聞は一見に如かず)と言いますが、私はそれをあなたに一目で信じさせることができる写真を目の前にしてます。御託はいいから早く見せろって? すみません、ここはシリーズ通してもハイライトシーンの一つなのでちょっともったいつけてるだけです。今すぐお見せします。覚悟はいいですか?
海に棲むクジラ類の脳の大きさは、類人猿程度のものから人間の六倍もあるもの(マッコウクジラの脳)まで実に豊富な種類がある。イルカや歯クジラの仲間は種類が多いが(五二種類)、彼らの脳の大きさはサル程度のものもあれば、人間と同じ大きさのもの、さらには人間の脳の四倍から六倍の大きさに達するものまである。
(中略)
ピーター・J・モーガン博士、ポール・ヤコブレフ博士、サム・ジェイコブズ博士による入念な研究が明らかにしてみせたのは、大型のクジラ類の脳で発達しているのはマクロコンピュータの部分、つまり沈黙・連合皮質に限られるということだった。最も大型の脳を持つクジラ類の場合、他の動物の脳よりも体積の増えているのは、マクロコンピュータの部分だけなのである。ミニコンピュータは、より小型のクジラ類のミニコンピュータと変わらない。また神経細胞と神経組織の構成は基本的には人間と同じである。
したがって、ヒトと同じ大きさの脳を持つクジラ類はヒトと同じ思考力を持っていると考えられ、またヒトよりも大きな脳を持つクジラ類は、ヒトの能力以上に遠い過去にさかのぽって物を推し量ったり、はるかな未来に向けて思考をめぐらすことができると思われるのである。
「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」んじゃなかったのかよ!? ……なんてところに突っ込めと言っているわけではもちろんありませんよ。
第22回の脳の図を憶えておくよう言いましたが、あなたには見えますか、第二の存在の大いなる連鎖が第三のそれにバトンタッチした瞬間が。
たとえほんのダイジェストといえどもグールド師の講義を受けたからには、この写真が真理に基づく単なる事実の客観的な提示などではなく、彼らの考える「あるべき」宇宙秩序の縮図であるということを、わからないとは言わせませんぞ。
とにかくここは極めて重要なポイントなので、この写真を穴の開くほど見つめながら、次回ももうしばらく考察を進めよう。ちなみにマクロコンピュータとかミニコンピュータって何? というのは例によって私に聞かないでくれ。
私に言えるのは、脳をバイオコンピュータと呼ぶのが格好いいことだった時代があったということと、後の科学はそのような見方を支持しなかったということぐらいだ。(つづく)
*1:この件については、この時代以降の科学の発展を概観する時に、もう一度詳しく取り上げる予定だ。
*2:スティール・ボール・ランでもグレンラガンでもあらず!
*3:そんなことはもうわかっているだろうし、この発想自体は、LSDを使用したり塩水タンクに浮かんで瞑想しようとしたりすることに比べれば、そんなに非科学的とは言えない。
おまけ
懐かしき世界。
■ガイア教の天使クジラ28
『イルカと話す日』を読み進める前に、ちょっと補足しておかなければならないことがある。私はリリー博士のことを「ガイア教史上最重要人物」と呼んでいる。私はそれが適切な表現であると思っているし、今後も変わらない。
ただしそれが「彼がいなければガイア教は生まれなかっただろう。」とか「彼がいなければ反捕鯨運動などなかっただろう。」というような意味に受け取られているなら、私の意図に反する。
ここまででもすでにある程度は理解してもらっているはずだと思うが、私がシリーズ全体を通して伝えたいのはまったく逆のことである。
ガイア教は一般的な日本人にはいくら奇妙奇天烈に見えても、本当は少しも突飛なことでも不思議なことでもない。それどころか極めて自然で当たり前で必然的な現象であって、特定の誰かが「原因」だとか「元凶」だとかいうような考え方はまったく必要ないどころか、むしろ有害であるということを言っているのである。
違う分野でたとえるなら、もし手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに何の異論もない人でも「手塚治虫ただ一人がこの世に産まれなかったら現代日本のサブカルチャーの特殊な発展はなかっただろう」という意見には必ずしも同意できないだろう。
それは知識の不足からくる過剰な単純化・無分別な神格化であり、正しい理解のためにはむしろ有害だと言わなければならないだろう。
一般に歴史において特定個人が果たす役割の大きさはかなり過大評価されている。その方が理解しやすい、というよりはそうでもしなければ理解できないという理由でだ。
人間の頭は複雑な歴史をありのままに理解することなどまったくできない。まったく理解できないよりは、たとえ不適切な単純化を施してでも、ポイントを抑えて大雑把には理解できる方がはるかにましである。
一人の人間の発想は必ず過去の膨大な蓄積に基づいており、完全な独創でまったく新しいものを生み出せる人間など実際にはいない。*1もしいるように見えたら、それは観察者の知識の不足を意味するに過ぎない。
ただし、漫画史における手塚治虫がそうであるように、それ以前の全てがそこに流れ込み、それ以後の全てがそこから流れ出るような、焦点と呼べるような人物はいる。全てを詳しく知り尽くすには時間も能力も足りていない我々が歴史を勉強するのに一番ましな方法は、そのような人物を追うことである。
私がリリー博士をガイア教史上最重要人物と呼ぶのはそのような意味においてのみである。このことはまだ納得してもらえないとしても、この先リリー博士やその精神的後継者の思想を見ていく上で徐々に理解してもらえるようになると思っている。
序章
本書の読者に、私はイルカに関する新しい学説をいくつか紹介したい。若い世代の多くの人びとが私と同じ学説を主張しているのである。本書ではこうした学説の基礎となったもの――体験と実験、そしてそこから導きだされた推論――を紹介する。
この本の次回以降の部分では「体験と実験」の部分と「そこから導き出された推論」の部分の境界に注目してもらいたい。そこが現代(約半世紀前ではあるが)の“理性と神秘の境界線の位置”だからだ。
脳の構造とクジラ類の行動に関して、さまざまな事実が発見され、整理されて、多くの生物学者や水族館でイルカやクジラを飼育している人びとが従来主張してきたものとは真っ向から対立する学説が生み出され、理解されるようになった。手短に言えば、この新しい思想はこう主張している。大型の脳を持つクジラ類はどの人間よりもすぐれた知性を持っている、と。従来の学説は、イルカとクジラにたいする無知にもとづいており、彼らとの直接的なふれあいを欠いていた。
脳の構造・大型の脳・脳・脳・脳。
これまで人類の学説はさまざまな衝突を生み出してきた。政治、領土、宗教、法律、男と女の関係といった領域で衝突が生まれた。これにたいし、クジラ類に関する新しい学説は、個々の人間に関して、そして政治、社会、さらには科学に関して、疑問を投げかける。人間は地球を変えつつある。
えーと、あなたの学説は回り回って(少なくとも日豪間では最大の)とんでもない国際問題を生み出してしまってますが……。これまた狙ってやっても決してできないであろうものすごい皮肉だね。私はこういう物事が好きでたまらない。わざと不適切な言い方をするとこういうことにこそ神を感じる。
人間は地上の大型の哺乳類をことごとく殺戮してきた。北アメリカに生息していた大型の哺乳類は、人間の手で絶滅に追いやられた。アフリカの哺乳類は、その生息領域に人間が侵入したために激減した。海に棲む哺乳類は、人間が侵入してきて自分勝手に捕獲したために、絶滅の危機に瀕している。
これは重要なことなので第4回で一度詳しく言っているし、これからも折に触れて繰り返すが、ガイア教徒の「クジラを殺すな!」という叫びに「お前らだっていっぱい殺してたじゃないか!」とか「お前らもカンガルーとかディンゴとかいっぱい殺してるじゃないか!」とか言い返すのは論理的にも戦術的にもまったく間違っている。
それはまったく効果がないばかりかむしろ逆効果をもたらす。彼らの行動が過激なのは、過去を忘れて反省していないからではなく、反省しすぎて安易な救済に飛びつかざるをえないほどの激しい罪の意識に苛まれているからだ。*2そんな反発は彼らの罪悪感をさらに掻き立て、ガイア教のありがたさを増すばかりだ。
なんで捕鯨に反対したら救済されるのかって? 私に聞かないでくれ。それがガイア教だからとしか答えようがない。なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。キリスト教徒なら説明してもらう必要はないし、説明されて納得できるならその人はすでにキリスト教徒である。
以前(一九六五年以前)私は、人生における究極の目的は、完璧な客観性を備えた科学的観点を保つことであり、絶対中立の科学的観察者の立場を維持することだと考えてきた。しかしいまでは、こうした公平無私のエコロジー観は何の役にも立たないと確信している。社会的な責任を取ること、つまり自分の属する種から自然へのフィードバックに力を貸そうとしない科学者は、社会に奉仕するという限られた役割を越えて、人類としての責任をまっとうすることはできない。自分の拠りどころを明確にし、行動を起こすことこそ、自己と自己の属する種を理解し、絶滅から救うための不可欠の条件である。
第20回を読み直そう。私は「このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。」と書いた。これがその一部だ。
客観性を奉ずるあまり無慈悲になってしまった過去の科学を深く深く反省した結果、今度は慈悲を奉ずるあまり客観性を軽視してトンデモになってしまった、というわけだ。わかってみれば簡単なことでしょ? あちらを立てればこちらが立たず、科学とは難しい活動なのです。
われわれ人類は新しい倫理、新しい法律を必要としているが、それは自分たちと同じか、それ以上に大きな頭脳を持つ他の動物のライフスタイルと生活圏への侵略を禁ずる倫理の上に築かれなければならない。われわれは法律を改正して、クジラ類を個人や企業、政府の所有物であることから解放する必要がある。法律において、個々の人間の尊厳が貴ばれているのと同じように、個々のクジラ、イルカに対しても敬意が払われるべきなのである。
どっかで聞いたような台詞じゃないか?(参考)
火薬の爆発力を利用してクジラの体内に打ち込まれ、その噴気孔から大量の血を噴き出させる爆発型の銛は、悪夢のように多くの人びとの心を苛みつづけている。クジラの断末魔の叫びは世界中の海であがっているのに、その叫びをあげさせている張本人たちの耳には聞こえていない。自分たちは産業用に必要な大量の食肉を確保するためにクジラを殺しているのであって、地上で最も大型の、精妙な脳を殺しているのではないと思っている人びとは、そうした考え方を変える必要がある。クジラ類に人間と同じ法律を適用して保護してやり殺戮をやめさせなければならない。
「それは大型の脳じゃなかったら殺してもいいという意味なのか?(笑)」という反応が生じるかもしれない。しれないどころではない。今回の騒ぎを通じても実際に多くの日本人が同じような台詞に同じような反応を示しているのを見ている。
何を笑ってるんだお前は? 答えはもちろんYESだ! 今さっきその論理で何百万人か地獄へ送ってきたところだろうが。そんなに可笑しいかよ? いくら不謹慎な笑い大好き人間の私でも引くぞ。
まさにここで「奇妙だ」とか「馬鹿げている」とか「それは何か他の意図(利権とか寄付金とか)を隠す建て前だ」とかいう風に片づけてしまわないように、私は『人間の測りまちがい』の紹介に時間をかけたのだ。
イルカを捕獲し、隔離している人びとは、隔離をよりゆるやかなものにして、隔離されたイルカが海中にいる家族や仲間だちとコミュニケーションがとれるようにしてやるべきである。イルカやクジラを隔離するのならば、あらかじめ取り決めた一定期間だけ隔離して、そのあとは本来の生態環境に戻してやり、人間の活動を仲間たちに伝えるようにしてやるべきである。私は現在の水族館がイルカの「監獄」であることをやめて、イルカと人間の双方を教育する、「異種間スクール」になればよいと考えている。
「異種間スクール」って……あんたでしたか電波の発振源はッ!! そうなんですよユリカさん、これはかわいそうすぎるのであまり言いたくないんだけど、ぶっちゃけた話あなたはLSDでトリップしたおじいさんの妄想の中で生きているのですよ。
アトピーに負けずに強く生きて下さい。もっとも、あなたのような段階までいってしまった人は、もういっそ目覚めない方が幸せだと思いますが。*3私たちはそういうわけにもいかないので先に進ませてもらいます。(つづく)
*1:ちょっとでもそれに近いことができる人間は天才と呼ばれる。
*2:この罪とそのあがないの強調は、ユダヤ・キリスト教の伝統にうまく合致している。
*3:目ざめたところで社会全体も似たか寄ったかですし。
おまけ
■ガイア教の天使クジラ27
前回に続きジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読み進めよう。やっと本人の登場。
著者序文
一九五五年、私はイルカ(本書では基本的にハンドウイルカTursiops truncatusを指す)の科学的研究に着手した。一九六八年、この研究プログラムは終了した。この間、イルカについて大きな発見がいくつもなされた。
一九六八年から一九七六年にかけて、私は自分自身を含めた人間についての研究に精力を注いだ。この研究はのちに一冊の本(『ディープーセルフ――深層リラクセイションとタンク・アイソレーションのテクニック』サイモン・アンド・シャスター、ニューヨーク、一九七七年)にまとめられ、刊行された。この研究をまとめるあいだに、私は一九六八年から一九七六年にかけて発表されたイルカに関する論文に目を通してみた。その結果わかったことは、一九五五年から一九六八年にかけて私が発表した論文にもとづいて、イルカと人間のコミュニケーション、イルカ同士のコミュニケーションを論じた研究は一つもないということだった。
ですよねー(笑)。
すまん、前回他人に笑うなと力説しておいて自分がいきなり笑ってしまった。でもこれで笑うなというのも、それはそれである意味人間性に対する冒涜というものだろう。
この本には研究の終わりについては書かれていないが、他の情報源によると「“仲間”を実験のために閉じこめておくのは倫理に叶わない」という理由で飼っていたイルカを逃がして自ら実験を打ち切ったそうである。実情はどうだったのかは知らないが、推して知るべし。
その後、直接彼の後を追ってみすみす自分のキャリアを棒に振るような学者は、さすがにいなかったようだ。だが後で見てもらうように、彼の精神は一般大衆はもちろん、一部の学者の間にさえ広く生き残ったのである。
私は一九六八年から一九七六年にかけて他の研究者が発表した論文の目録を作成した。やがて私はこの文献目録を出版したいと考えるようになった。
これらの論文に目をとおして、私はいまこそイルカについての自分の研究をまとめるいい機会だと確信するようになった。
(中略)
著者と協力者たちが一九五五年から一九七六年にかけて達成したイルカに関する発見の年表を次頁に掲げた。表中の文献の参照番号は付録の文献解題のものである。
写真の年表を見てもらおう。すでにあちこちにそこはかとなく微妙な空気が漂っているのが感じられるだろうが、特に「LSDって、あのLSDと同じ略称だけとなんの略?」と思わないだろうか?
これは実は他の何の略でもなく、あのLSD、リゼルグ酸ジエチルアミド以外のなにものでもない。彼は自分やイルカにLSDを使うことで互いに交信できると考えた。このあたりは第24回で予習してもらったようなヒッピー文化を踏まえていないとまったく意味不明になってしまうところであろう。
人類は有史以前から幻覚剤を使って動物と交信をして神秘的な知識を得ようとしてきた。いつごろからと断言できるような考古学的証拠を持つ者は今のところ誰もいないが、ラスコーやアルタミラの素晴らしい*1壁画を描いたクロマニヨン人たちがそうしていなかったとしたら驚くべきことだろう。
そして今や酒や毒茸はLSDに、雄牛がイルカに道を譲ったというわけだ。人類も随分と進歩したもんだ。『針の上で天使は何人踊れるか』で学んだ教訓を憶えているか?*2
日本語版への序文
一九七八年に本書『イルカと話す日』を出版したとき、私は揺るぎない結論を得たと考えた。二〇年以上にわたってイルカを科学的に研究し、イルカが生理面でも、精神面でも、特有の能力を持っていると考えてきた私は、この驚くべき生き物とコミュニケーションを交わす方法を習得すれば、人類はいずれ、私が「種の孤立」と名付けている状態に終止符を打てるだろうという結論を出したのである。
それ以前、正確には一九六〇年に、私は慎重に考えたうえで、次のような楽観的な見通しを述べている。「あと一〇年か二〇年ののちに、人類は他の生物とのコミュニケーションを確立するだろう。人間とは種を異にするその生物は、地球外生物の可能性もあるが、むしろ海洋に棲む生物である可能性のほうが高く、間違いなく高い知性を備えている。おそらく人間と同程度の知性の持ち主であろう」。
一九九四年現在、こうした異種間コミュニケーションはまだ実現していないが、私はいまだに一九六〇年当時と同じく、異種間コミュニケーションの実現に楽観的な見通しを持ち、希望を抱いている。そしてこのたび本書が日本で刊行されるにあたり、私の初期の研究がいまも人びとから注目され、関心を呼び、私の研究の意義に理解を示す人びとが増えつつあることを嬉しく思う。
笑った直後であれなのだが、私は、彼の50年代から60年代の研究自体は、かなり度外れているとは言え、科学を進歩させる(可能性があった)正当な想像力の飛躍として認められるべきだと考える。しかし、その後に彼が取った態度はまったく弁護できない。
すでに亡くなって――あるいは肉体を抜け出して異星文明に帰って――しまった彼を裁く法律はない*3が、彼は今日の状況に対して道義的責任を負っており、歴史の審判を受けねばならないだろう。イルカ好きが度を越したぐらいでそんな目に遭わなきゃならないとは地球も物騒な星である。
本書の刊行以来、クジラ類の脳の構造が人間の脳に匹敵する大きさと複雑さを持つということは、多くの人に理解され、支持されるようになった。地球上には人間以外に、意識を持ち、自己を認識し、複雑で抽象的な思考をめぐらすことができる生物がいるという、この発見によって、あらゆる生物の頂点に立っているのは人間だけではないという考えが理解されるようになった。
この特権的地位を占めているのは、人類だけだというこれまでの通説が覆されたのである。この理解が広がることで、旧来の人間中心の世界観は、根本から組み替えられることを余儀なくされた。それはちょうど、コペルニクスが新しい地球観を打ち出して、地球は宇宙の中心ではなく、きわめて特殊な衛星を持つ小型の天体なのだと主張したのと同じくらい、革新的なできごとだった。
またきた。やもするとマッドサイエンティストの途方もない誇大妄想だと片づけてしまいそうになるところだ。しかし、あなたはそうとも言えないということをすでに学んでいるはずだ。これは第17回で見たような伝統的・キリスト教的動物観への反動と捉えなければならない。その意味でとても自然な発想であり、ある意味で確かに革新的なことなのだ。
本書の主題はコミュニケーションである。そこで叙述の目的上、私はコミュニケーションを、二つもしくはそれ以上の知性のあいだで行われる情報の交換と定義した。そして、人間がイルカやクジラなどの古代から生き長らえてきた頭脳と充実したコミュニケーションを交わせるようになったとき、彼らとの意思の疎通がどのような成果がもたらすかを詳しく論じた。
嘆かわしいことであるが、人間は海に棲むクジラ類にたいして、いまだに別のかたちの干渉や働きかけを行なっている。人類は海洋を汚染し、海洋の生態系を破壊している。そして最も恐るべきことに、人類は直接的であれ間接的であれ、意図的にさまざまな海生動物を絶滅に追いやっている。その結果、一九九二年だけで人間の捕鯨によって、一○○万頭以上のクジラ類が殺されているのである。隣人と争い、他の人類に戦争をしかけ、他の生物を情け容赦なく捕獲して絶滅させることで、人間は「コミュニケーション」という言葉の本来の意味を冒涜しているように思われる。
もしかして冒涜されている「コミュニケーション」という言葉の本来の意味ってのは前の段落で自分で定義したもののことなのだろうか。それにしても一〇〇万という数字はどこから出てきたのだろう?*4
捕鯨だけでなく、漁網に絡まったりして死ぬイルカの類*5を全世界分合計しても全然足りない数だ。数の多さを表す飾り言葉である"million"の誤訳(「無数の」と訳すべきところ)という可能性も考えたが、はっきり「一九九二年だけで」と言っているところを見ると無理があると思う。正直私にはわかりかねる。
私は、人間と同じように大型の脳を持ち、地球に住み、地球に生命を委ねているこのクジラ類という動物に新たな期待を寄せている。熱意に溢れ、進んだ意識を持つ数多くの人間がたゆまぬ努力を重ねて、無知の壁を取り払コミュニケーションの障壁を突破すれば、やがて人間とイルカは言葉を交わせるようになり、双方が地上での生活から得たさまざまな体験を共有し合えるようになるだろう。
私は「クジラ類国家」の設立を構想している。クジラ類国家をつくって、代表の人間を国連に派遣し、この国家――地球の表面の七一パーセントを占める海である――の住民の主張を、正当なやり方で自由に表明させるのである。
これも同じだ。子供じみたマンガチックな空想に見えるかもしれないが、第21回のあたりで見たような、長い人種差別の歴史に対する反動として捉えれば、そこまで突飛な発想とは言えなくなる。極端から極端に走ってしまうのは人間のもっとも基本的な弱点の一つだ。
最後に本書を手にしてくれた日本の新しい世代の読者に、謹んでお礼申し上げるとともに、彼らがこの夢の対話の実現に取り組むことを心から歓迎したい。素晴らしい新世界を築くには、若い世代がこの、イルカとの対話という課題に取り組むことがぜひとも必要である。そしていつかわれわれは共通の夢を抱いたことを誇れるようになるだろう。また、いつの日かその夢が実現すれば、一層の誇りを感じることができるだろう。
一九九四年三月三〇日 ハワイ、マウイにて ジョン・C・リリー
すまないが私にはお礼を言われる資格はないようだ。まだようやく序文が終わったところだが、いったんまとめよう。
スティーブン・ジェイ・グールドが公民権運動で黒人と並んで座り込みをしていたのとまさに同じ時に、なぜだか知らないが、自分たちは孤独だ、孤立していると感じ、シロイルカの肌に熱烈なキスをしている人々がいた。
彼らは、西洋の伝統的な宗教観や社会哲学に批判的だった*6が、最初から西洋哲学の伝統から外れたところにいる人間の目から見ると、まだまだそこから抜け切れていないか、あるいは一回転して元に戻ってしまっているだけだった。
もうしばらくリリー博士につきあうことを通じて、この「ねじれ」をもっとはっきり認識できるようになってもらいたい。この「ねじれ」こそがガイア教徒の全ての力の源であり、同時に彼らに限界を課しているもの、すなわちガイア教そのものであるからだ。(つづく)
*1:少なくとも私の絵よりうまい。
*2:「未開人はもっぱら呪術の世界に浸っていたのではなく、自然の力と超自然の力をともども認識し、普段は確実な知識に基づく合理的な手段で自然に対処していたが、あらゆる努力も知識も凌駕する不可知の影響力を統御するときに、呪術に頼った。文明社会も実は同様なのであり、理性と神秘の境界線の位置や知識の体系のあり方、それらと社会の仕組との関係が異なっているだけなのである。」
*3:そんなものがあるべきだとも思わない。
*4:一〇〇万だったら何なんだということはひとまず置くとして
*5:言うまでもなく捕鯨とは比べものにならないほど多い。
*6:少なくとも本人たちはそう思っていたし、それは決して嘘というわけではない。
おまけ
C・W・ニコルさん。この人だけは心底気の毒だ。
■ガイア教の天使クジラ26
ではジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読むことにする。日本での出版は1994年だが、原著"Communication Between Man and Dolphin: The Possibilities of Talking With Other Species"は1978年の刊行であるので時代を意識する必要があるときは78年の方に脳内時計を合わせなければならないと注意しておく。*1
序言――シロイルカからの招待―― アントニエッタ・L・リリー
数年前から、私はクジラとイルカに関するおびただしい量の情報に接してきた。セーブ・ホェール、グリーンピース、ドルフィン・エンバシーといったさまざまな組織がアメリカ全土に連絡網をめぐらせている。さまざまな地域の人びとが、この愉快な生き物に興味をいだき、イルカについての知識を深めたいと考えて、私の夫、ジョン・リリーのもとにやって来て助言と情報を求めてきた。というのも夫のジョン・リリーは、イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっていると最初に主張した人物だからだ。
しょっぱなからメチャクチャ重要なポイントだよ! はてさて「人間並み」と言いつつ同時に「海生動物ならではの独特な形をとっている」というのは一体全体どういう意味なのだろう? 人間は海生動物だっただろうか? 火星人ならそう聞き返すだろう。さあ彼女は何を言わんとしているのか?
これはある意味、この本全体を通じて一番重要な点である。あなたは読み終わる頃までには、この問いに答えられるようにならなければならない。今から考え始めておこう。スティーブン・ジェイ・グールドならなんて答えるだろうか?
二〇年間にわたる独自の科学研究の末にリリーが得た結論は、すでに多くの人ぴとに知られている。人間はもはや知性を備えた唯一の生物ではない。イルカにも知性が備わっている。私は、サンディエゴの研究所で経験したある感動的な出来事によって、この事実を目の当たりにした。
最近、私たち夫婦はヒューマン=ドルフィン・ファウンデーションを設立した――イルカとのコミュニケーションを推進するための新しい研究機関である。またそのいっぽうで、私は、個人的にもこの目標を達成したいと考えていた。私にとって、イルカとのコミュニケーションは現代における最も興味をそそる、重要な試みなのである。
次の部分ひときわ振るってます。注目。
一頭のイルカが水から頭を出して、こちらを見つめた。私も相手の目をまっすぐに見つめた。突然、イルカが口から水を吹き出した。水鉄砲は私の顔と肩に命中し、ゆっくりと全身を濡らした。それは愛情あふれるふれあいだった――もっと親しくコミュニケーションをしようという誘いだった。それは、これまで人間から受けたどのようなアプローチよりも官能的な誘いだった。私は無意識に手で水をすくって口に含むと、そのイルカに水鉄砲のお返しをした。そのあと数分間の喜びは、書き留めてもおよそ意味をなさない。
私はイルカの白い肌に手を触れ、キスできるようになった。これこそ私が体験したかったことなのだ。私は境界を越えて新たに開かれた世界に入り込み、充足感に満たされた。分かち合える世界を持とうというこのイルカの誘いは、生物同士を隔てている亀裂の彼方にかいま見える、ある世界のビジョンを私に授けてくれた……いつの日かすべての生物が一体化される時が来る……そこでは、かつて隔てられた生物たちが再びひとつにまとめられる、平和な楽園、「平和の王国」が実現する。生物は種ごとに孤立化し、その孤立を高めていく。やがてそこから生命の凝縮と拡散の過程が生まれ、思いもよらぬ形でクジラ類との一体化が起こる。
しかと見よ、ガイア教徒に約束された千年王国の姿! いきなり「彼女は頭がおかしい」と片づけてしまいたくなった人もいるだろうが、さて彼女は頭がおかしいのか? いーや、ちっとも。仮に百歩譲っておかしいとしたって、信仰を持つキリスト教徒の誰よりもそんなに顕著におかしいとは言えない。
私がここの記述で連想するのはイザヤ書の一節*2だ。彼女が、自覚しているかどうかはともかく、このような伝統的イメージの影響を受けていないと考えるには特別な理由が必要だろう。私にはその理由は何も思いつかない。
……ところで、だ。こんなささやかな千年王国の到来すら邪魔しようとする奴らがいるよなあ? 他人んちの裏庭の海*3までわざわざやってきて、血まみれの口で「お前らの信じる天国など妄想だ! お前らの生は無意味で、終わりにあるのは虚無だけだ!」とゲラゲラあざ笑っている悪魔のような、いや、悪魔そのものの奴らがなああ? いったい誰だっけそんなけしからん奴らは? めっちゃ許せんよなあああ!?
白いおばけたちは不思議なほど愛情がこまやかで、水中で悪戦苦闘している私を気遣ってくれた。彼らは、太古の冷たい海を泳いでいた私自身なのである。細胞が組織され、陸に上がってくる以前のはるか遠い過去に、私は海の住人であったのだ。彼らと過ごしたこの日、私は水中に住んでいたころの過去の自分を取り戻した。
過去にさかのぼり、彼らとともに自分の起源についての新知識を語り合い、彼らと一緒に人間とクジラを長いあいだ隔ててきた壁を打ち破りたいと私は願っている。
見てわかるように、いちいち突っこんでいたらきりがないので何も言わない。しかし、これじゃあアクア説は、裏付ける証拠がいっさいなくても、あまりにも素敵なのでどんどん信じちゃいたくもなるってもんだよね。
序文 バージェス・メレディス
(前略)リリーの自宅の隣には、一部屋半の広さしかない小さな実験室がある。ここでは、一週間のうち五日間、アメリカとカナダのさまざまな地方からやって来た若い科学者たちが、リリーの指導を受けながら無報酬で働いている。彼らはソフトウェアとハードウェアとを連動させる仕事に取り組んでいた。また、ファウンデーションが購入したさまざまな種類のコンピュータやハイドロフォン、計算用の機器の調整、研究結果を使った科学的な実験の準備などの、より簡単な仕事も行なった。
ファウンデーションで働く者は、選ばれてこの研究に参加しているという誇りを感じていた。ファウンデーションの研究は重要な進展を見せているという噂が流れ、実際に高い地位にある人びとが訪れてきた。
コンピュータが激しく時代を感じさせてくれる。今日の社会から「大きな脳」に対する強迫観念が消滅してしまっている*4という事実も、我々が猛烈な勢いで小型化かつ高性能化するコンピュータを見ながら育った、という時代背景の間接的な記録に過ぎないのではないか? という思いつきが生じる。
人間よりも大きな頭脳を持つ動物(地球においても他の惑星においても)とのコミュニケーションの達成には巨大な可能性が秘められており、現代の地球における「人間のかくも長き孤独」に終止符が打たれるとすれば、もちろん歴史的な大事件となるに違いなかった。
つまるところ、私たちはクジラとイルカが絶滅する前に、彼らと話ができるようになろうと努力しているのである。ギリシャ悲劇のように、そこには凄まじい緊張感があり、どんな結果が出るかはまだ明らかではない。
(中略)
故ジョン・スタインベックは『コルテスの海』の中でこう書いている。「人間は足元の潮だまりを見つめるべきである。ついで星を眺め、また再び潮だまりを見つめるべきなのである」。
宇宙から海への神秘の移行は第12回でもちょっとだけ触れたが、どうも私の深読みし過ぎというだけでもないようだ。関連する時代背景としてはアポロ11号の月着陸は1969年。
ジョン・リリーはこれと同じことを別の言い方で語っているのであり、私たちの多くが彼に惹きつけられるのも、彼のそうした主張によるものなのである。「人が心の中で真実だと感じるものには、最初から真実であるものと、しだいに真実となるものとがある。いずれの場合も、その真実には、一定の限度が設けられている。そしてこうした限度こそが理性では説明のつかない信念というものなのである」
これが高度に悲惨な自虐的ギャグに聞こえるとしたら(私には聞こえる)、それは単に私たちがすでに結果を知った上で読んでいるからに過ぎないことに注意しなければならない。それを忘れて彼らを変人と笑うのは、誰よりもまず私が許さぬ。
現在の我々がイルカ・クジラが人間以上*5の知能を持っているとは考えないことに何らかの自信を持っているとすれば、そのことは、
かつて彼らのような立派な技術と知識を備えた大勢の人たちが「イルカ・クジラには人間以上の知能があるはずだ。あって欲しい。」という最大限の予断と偏見を持って臨み、それでもなお失敗した事実を知っている
という以外の何事をも意味しない。(つづく)
*1:個人的な話だが、私は1979年生まれなのでちょうど私が生まれた頃にあたることになる。
*2:「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」11:6〜9
*3:オーストラリア人から見ての感覚
*4:少なくともこのような問題を通じて「しっかり残っている」と言える程度までは。
*5:というのが何を意味するのだろうかという疑問はひとまず置くとして。
おまけ
キリスト教原理主義は反捕鯨とは関係ないというのはこの動画一つ見てもわかるだろう。宗教原理主義など信じていそうな保守的な人というのは、どちらかというと、左派的なガイア教には懐疑的な人間だ。
もちろんこのおっさんが原理主義者だというわけではないが、どんな反捕鯨活動家よりもそちらに近いタイプの人間であることは論を待たない。
■ガイア教の天使クジラ25
さて第2ラウンド開始である。これから4人のガイア教徒と対決していただくが、今度の相手はこれまでと違ってプロである。
みな名だたる大学の博士であったり、権威的な科学者であったり、立派な団体の職員であったりする。みな実際に社会におけるイルカ・クジラのイメージを変えたり、反捕鯨運動に重要な役割を果たした人物ばかりである。
彼らは、ガイア教のほんの上っ面を撫でただけのユリカさん*1や、テレビでの又聞きをたれ流しただけの第10回の男などとはわけが違う。第12回で読者の心胆を寒からしめたビクター・ケラハーさんですらも、個人的には好きなのだが、彼らの前ではほんの下っ端にすぎないと認めざるを得ない。
私があえてそのような雑魚に長い前置きの時間を費やすことを選んだことには、その方が面白いという構成上の理由以外にも、免疫をつけるという目的があった。彼らをダシにして、どうしても先に文化人類学的思考と西洋思想史についての最低限の基礎知識を身につけておいてもらいたかったのである。
第13回に書いた、シーシェパードの件による順番変更でそうなったわけではない。あそこで飛ばされた文学作品が一つあるが、位置づけとしては『クジラの歌がきこえる』に近いものである。まだ紹介する価値はあると思っているので良い機会あれば息抜きに入れるかもしれない。
逆に言えば、その準備なしにいきなりここに突入した場合、読者が「やっぱりこいつらは頭がおかしい例外的な人間にすぎない」とあっさり片づけてしまったり、もしくは恐怖に耐えきれずに目と耳を塞いで逃げ出してしまったり、あるいはもっと悪くすれば……改宗させられてしまうことを危惧したのである。
その危惧はまだ完全に消えたわけではない。この先を読み進めるにはしっかり覚悟を決めて、そのぐらい警戒してほしいということだ。では早速トップバッターを紹介しよう。先に予告した通り、私が考えるガイア教史上最重要人物だ。
一人で歴史上の3つの存在の大いなる連鎖全てに関わり、最初期のイルカ知能研究者であり、ニューエイジ文化の中枢に位置したグルであり、大衆の間でのイルカ・クジラのイメージを大きく変えたその男の名はジョン・カニンガム・リリーである。(つづく)
*1:本人はそう言われるのは不満だろうが仕方ない。
予習用資料
- 心と脳を科学し続けたサイケデリック・グル- ジョン・C・リリー John.C.Lilly -
- ジョン・C.・リリィ博士
- SF映画選・アルタード・ステーツ
- 松岡正剛の千夜千冊『意識の中心』ジョン・C・リリー
- spiritual bookstore BOOK CLUB KAI / people /ジョン・カニングハム・リリー
おまけ
彼がモデルとなった映画。さすがに古すぎるせいもあって、普通の意味ではあまり面白くはないが、この1だけでも見ておくと時代の雰囲気が掴めていいかもしれない。
■ガイア教の天使クジラ24
さて、前回までで約500年間の脳内時間旅行を終え、現代に帰ってきた。今は1950年代後半から1960年代である。特に60年代は各リンク先まで行かなくてもいいのでページ全体に目を通してもらいたい。
見ての通り、ここから先は全てたかだか5,60年前の話であり、読者の中に当時十分に物心ついていた人間がいても少しもおかしくない時代である。もはや現代と言っても過言ではないだろう。
しかし、現代だからといって油断してはならない。現代だから、まるで異世界だった500年前や150年前よりもよくわかっていると思ったら大間違いである。我々はその後共産主義の崩壊および911という思想史的に大きなインパクトのある事件を二度も通過しており、この時代は十分に異世界である。
しかも、この時代はいくつかの理由により、遠い過去よりもかえって理解しにくい。最大の理由はもちろん、いまだ私たち自身がその一部に包み込まれている現在進行形の出来事であること。
他には問題の基本的な事実に決着をつけるための科学が未発達であること。*1およびそれを整理して歴史としてまとめるのに必要な時間が経っていないこと、などがある。
現に私は、この時代の教科書として使えるような思想史の本を、500年前についての『天使は針の上で何人踊れるか?』や、150年前についての『人間の測りまちがい』に当たるような決定的な本を見つけることができていない。
おそらく探せば見つかるのだろうが、今探している時間はない。Wikipediaに頼る機会が増えるだろう。これまでよりもリンク先に注意してもらいたい。また、この時代の空気を手っ取り早く知ることができる映像作品としては『映像の世紀』の第8集・第9集を薦める。
しかし、難しいからといってこの時代の理解は少しでもおろそかにするわけにはいかない。なぜならこの時代はガイア教誕生の瞬間に他ならないからである。我々はまもなくガイア教史上最重要人物と直接対面することになるが、その時のために絶対に必要な最後の準備である。気を引き締めて臨んでもらいたい。
また頭の体操だ。ガイア教の支持層であるアメリカやヨーロッパの西側諸国に住むリベラルな白人になったつもり*2で想像してみよう。第二次世界大戦の後、日本人にはほとんど意識されていない思想的危機が訪れた。それは中世の安定したキリスト教体系が科学によって揺さぶられたことに勝るとも劣らぬ重大な危機であった。
優生学を侵略と大虐殺の正当化に利用したナチスが止めとなり、社会ダーウィニズムを中核とする第2の大いなる存在の連鎖は劇的に崩壊した。植民地は次々に独立し帝国主義は否定された。人種差別は擁護できなくなり公民権運動でついに表舞台からは完全に姿を消すことになった。
もちろん彼らはそれらのこと自体には賛成であった*3が、それでも意識的無意識的に何百年も刻み込まれてきた安定した世界観が崩壊して不安でないわけがなかった。そんな不安な時何が信用できたか?
政治・経済は信用できなかった。冷戦真っ盛りの時代であり、現在のように資本主義の正しさ(というより共産主義の間違い)は決して自明ではなかった。キューバ危機で核による最終戦争が目の前に迫り、人類絶滅の恐怖に怯えなければならなかった。
それどころかベトナム戦争で民主主義のための戦争の正義さえ信じられなくなってきた。しかし、社会主義の高邁な理想には憧れるからといって、実際に共産圏の国に渡って貧しい不自由な暮らしをするのも、まっぴらご免だった。
科学も信用できなかった。スプートニク・ショックで西側は科学技術でソ連に負けているのではないかと思われたし、人類滅亡の象徴的存在である核兵器を生み出したのも科学なら、沈黙の春に象徴される自然環境破壊の元凶も科学技術だった。おそらく科学革命以来こんなにはっきりと科学が不人気な時代はかつてなかった。
もちろん、科学が信用できないからといって宗教(キリスト教)が信用できるわけでもなかった。たとえリベラルな人間であっても、自分がサルの子孫に過ぎないと考えるのが、あまり愉快なことではないのは確かだ。
しかし、だからといってジャズ大好きでフェミニズムにも理解のあるオレ達イケてる若者が今さら、女性が男性のあばら骨から作られたとか、黒人が父ちゃんの○を○って神に呪われた者の子孫だとか抜かす、古臭くてカビの生えた、ダサくて仕方のない教えに逆戻りしてありがたがるようなことが、どうしてできようか。
そんなこと言ってるうちにケネディ大統領が暗殺された。マルコムXが暗殺された。キング牧師が暗殺された。ベトナム戦争は泥沼。誰がどう考えてももはや世も末だった。
「……あれ? なんてこった!? 神も大統領も科学者も、教会も政府も学会も、聖書も憲法も論文も! もう何も信用できないじゃないか! そんなことって、そんなことってあるか!?」
あったんだ。これはファンタジーでもSFでもない。フィクションでも別の宇宙の話でもない。現実の、たったの数十年前の話だ。
「オレ達は理由もなく生まれ汚染の中で生き、わけもわからぬうちに水爆で吹き飛ばされて塵になる裸の猿に過ぎないのか!?」
巨大な空虚が生まれた。とてつもなく巨大な闇が生まれた。繰り返すがこれはファンタジーでもSFでもない。それが「アルカイダこえー」とか「中国産の食いもんこえー」とか呑気な不安しか抱いていない21世紀人の我々には想像すら困難なものだからといって、知らないとは言わせない。あなたはまさにその闇から生まれ出たものについて知るためにここに来ているはずなのだから。
「そんな はずは ない」
アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と言ったそうだが、この場合のアナロジーとしては適切であろう。巨大な空虚を埋めようとするが如く吹き出したこのパワーを、一番古い呼び名である「カウンターカルチャー」から始まるWikipediaサーフィンで体感しておこう。
- ヒッピー(超重要項。全部読むこと。)
何となく時代の輪郭が掴めてきたか? 上には一部の重要な項目だけ抜き出したが、独自にもっとどっぷり浸かっておいてもらった方が来週以降、彼との対話を乗り切りやすくなるかもしれない。
「彼」って誰かって? 実は私の指定通りリンク先を確認しながらこのエントリを読み進めてきたならもう「彼」と出会っているはずなのだ。(つづく)
*1:もっと後から振り返って見る場合と比較して、という意味。500年前のことを考えるとき魔女が本当にいたのどうか一瞬でも悩む必要があったか?
*2:もっとも現代日本人はよほどの変人でない限りかなり明白に西側かつリベラル寄りなので、単に欧米人になったつもり、でも十分と思われる。
*3:当たり前だ。反対だなんて言う奴は「人種差別主義者」だ。「ネオナチ」だ。何か文句ある?
おまけ
今週の更新が一本だけなのはこれのリピートを止められなかったからです。(下ネタ多め注意!)
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木戸孝紀














