■国際ニコニコ映画祭の結果がひどすぎる
応募の時は全く意識していなかった。公式落選第一号とか速攻で発表された時はかなり笑った。その後は発表まで忘れていたのだが、結果がひどすぎてどうでもよくなくなった。当然もうちょっと面白いものと思いこんでいたのだ。
これはニコニコ動画なんかただの著作権法違反幇助の場に過ぎないと主張している人たちにとっては大いに勇気づけられる結果だと思う。有料コンテンツの無法利用なしだと所詮こんなもんかと。
さんざん既出だとわかっていても言わずにいられないのだが、ひどい中でも大賞のチョイスがひどすぎる。どうしてあらゆる意味で最も不適切なものを選んだのか。
第一回国際ニコニコ映画祭の大賞受賞作品について - ニコニコ動画 開発者ブログ
不愉快過ぎるので内容にすら触れたくないが、このようなコメント出さないといけないような事態になっているのだし、個人的に(著作権関連の議論を除けば)ニコニコ動画始まって以来の大きなマイナスイメージの事態ではないかと思う。
しかし、応募された作品の中には面白いものがないわけではないのである。
ノミネート全部観たわけではないがマイベスト3は以上の動画。もちろん誰にとっても面白いというわけではないだろうが、良いものから順に選んで観ればそこそこ面白く、次回にも期待が持てる企画に思えてくる。全体のレベルは予想を下回ったとは言え決して低くなかった。だからこそ返す返すも大賞のチョイスがもったいない。
われわれとしましては、大賞となった動画についての審査の方法も結果も間違っていたとは考えておりません。
などというニコニコらしからぬ意地の張り方をしないで今からでも、いや、いまのうちにきっぱり撤回してほしい。撤回しても誰も責めない。むしろこのままでは、消えない汚点としていつまでも残る。大げさに考えすぎという意見もあるだろう。確かにこのままでもニコニコ動画がどうにかなるということはないだろうし、CGMの大きな流れに影響があるとも思わない。
また、受賞作品について、投稿者が不当な攻撃にさらされないように保護するため、発表前に受賞を拒否することができるようにします。その場合はXXX賞受賞拒否作品として発表され、次点作品の繰り上げなどはおこないません。
しかし実際、第2回の応募でのようなことを言うということは国際ニコニコ映画祭の賞というものは(全員ではなくとも)拒否したくなるような不名誉な賞であることを公式に認めるということだろう。そんな賞だったら最初から応募しなければいいではないか、そもそも開催しなければよいではないか。何のための賞か。
そしてそんな賞になってしまっている理由は今回の大賞ただ1つである。第3回も、第4回も、今後ずっと何十回も受賞拒否者のためのお断りを毎回アナウンスするつもりなのか。それよりは第1回の審査修正を1度だけアナウンスすればよいとは考えないのか。そうしないことによってニコニコできる人が一体どこにいるというのか。
11/2追加
念の為に補足しておくが、私は子供が真似したらどうするとかいじめ助長だとかいうアホな議論には与しない。例の動画が普通に日々のランキングに上がってきただけなら、私はなんでこんなのが1位なんだテラシュールwwwwwwとかなんとかコメントするだけだっただろう。 その意味で、私は動画の作者と、それを推薦してブログ炎上したとされている審査員には全く何の悪感情も持っていない。
私が批判しているのは運営者だけだ。特にひろゆきは(上の『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか』などでも書いているように)自分の立場が危ういバランスの上に成り立っていて、ちょっと誰かの気が変わればホリエモンのように転落させられることも十分ありうることを自覚しているはずなのに、この黒字化できるか否かという微妙な時期に不用心なのではないかと思う。まあ余計なお世話だろうが。
おまけ
■マウスの左ボタンは中指でクリックする?
コトノハ - マウスのボタンをクリックする時は人差し指を庇ってよく中指を使う。
私の答えは断固○。五指の中で一番太くて強いのは? 親指。それは当たり前。見なくてもわかる。その次は? もちろん中指。これも考えないでもわかる。ではその次は? 見ないで考えよう。
人差し指、と迷わず答えそうだが、そうとは限らない。人差し指と薬指の太さ・強さにはほとんど差がないように見える。個人差もあるだろうが、むしろ薬指の方がわずかに太いようにも思える。そうなると人差し指は小指の次に弱い指ということになる。
強さに従って仕事を負担することが合理的と考えられる。ホームポジションでキーボードを叩き、マウスを人差し指で左クリック、中指で右クリックという「普通」のパソコンの使い方をしている場合、各指は以下のような状態になっていると考えられる。
- 親指:一番強い指なのに、ほとんど働いてない(スペースぐらい)。遊びすぎ!
- 人差し指:2番目に弱い指なのにキーボードでもマウスでも一番働いてる。明らかに働き過ぎ!
- 中指:普通に働いてるが、2番目に強い指にしてはやや遊び気味。
- 薬指:弱めの指であまり働いておらず妥当。人差し指と同等の強さと考えれば余裕はある。
- 小指:一番弱いのであまり働くべきではないのに、薬指が叩かないようなキーも叩く。やや働き過ぎ。
この不均衡な状況を改善するために以前書いたようにキーボードの設定はいろいろと変えている。マウスに関しても、左ボタン・ホイールは中指、右ボタンは薬指担当となっている。
キー配列の効率化を図っても、キーボードで人差し指の使用頻度が高いのは変わらない。そこで人差し指はマウスクリックからは解放し、マウスのボタンのうち圧倒的に使用頻度の高い左ボタンを2番目に強い中指に、使用頻度の低い右ボタンを余裕のある薬指に回している、というわけだ。
おまけ
これはすごい。あまりにもすごすぎて、しばらく音符を兼ねているとわからずにいた。
■ファミコンのROMファイルをiアプリに変換するサーバ
ファミコンのROMファイルをiアプリに変換するサーバを公開します。 - CNET Venture View
試そう試そうと思っているうちに、いつの間にかずっとメンテナンス状態になってしまっている。さすがにやばすぎたのか? しかしなんかもうついにここまで来たかっていう感じですな。
おまけ
■数学パズル ペプシ算
清涼飲料水のキャップのオマケとして、10 種類の清涼飲料水マンのキャップがついてくるキャンペーンがありました。そこで、豪気な凛さんは 24 本の箱買いを実行しました。24 本も買えば、10 種類そろっていそうな感じですが、実際には(以下省略)そこで、そろわない場合の確率はどのくらいになるのか? 果たして凛さんは、全部の種類の清涼飲料水マンのキャップを持っているのだろうか?
サンプル: "多倍長計算のサンプル(ペプシ算)"より。ペプシ算ファイナル - 永字八法で知って、久々にパズル欲を触発されたのでやってみた。我ながらなかなかエレガント。大元ページの再帰的な計算法では手も足も出ない数になっても瞬殺(rubyのBignumが許す限り)。
class Integer
def factorial
(1..self).inject(1){|r, i| r * i}
end
def combination(n)
self.factorial / (n.factorial * (self - n).factorial)
end
end
def pepsi(m, n)
result = (0..m).inject(0){|r, i| r + (-1)**i * m.combination(i) * (m - i)**n}
(result * 10000000000000000 / m**n).to_f / 10000000000000000
end
puts pepsi(ARGV[0].to_i, ARGV[1].to_i)
下のように実行するとm種類のおまけ付きのペプシn本入りを箱買いしたときにコンプできている確率を返してくれます。
ruby pepsi.rb m n
たとえば例題の通りなら、
ruby pepsi.rb 10 24ね。それだけ。
11/27追記
combinationも整数のメソッドにしてみたりちょっと表現を整理(ロジックはまったく一緒)。それと、30 300程度で計算できなくなるのは、よく見たらBignumに入りきらないって言ってるんじゃなくてFloatで表現できないと言ってるだけだった(道理で少なすぎると思った)。整数だけで最後の割り算をするようにしたらもっとでかい数でもいけるようになった。
ruby pepsi.rb 365 2287 0.500370783936947
つまり誕生日が均等に分布していると仮定して2月29日を無視した場合、人口2287人以上の街では「毎日誰かしらは誕生日を迎えている」確率5割以上。へー。
おまけ
■アドルフ・ヒトラーは二重らせんを知らずに死んだ
『我が闘争』を初めて読んだのは中学3年か高校生1年ぐらいの時だっただろうか。読む前は何となく期待していた(今風に言えばwktkしていた)。なんと言ってもヒトラーといえば公認世界一わるいひと(オサマビンラディンはまだ世に知られていなかった)じゃあないか。まっとうな中学生男子を慰めてくれるぐらいのとんでもないことが書かれているはずではないか?
しかし期待は裏切られた。あまりにも面白くないのである。(「ナチスの高官も『我が闘争』は面白くないのであまり読んでいなかった」という話は、ただ強い印象を与えるというだけの理由で生き残っている根拠不明の逸話ではなく、何らかの真実を含んでいるものと私は思う。)面白くなかったのでほぼすべての内容を忘れてしまっているのだが、ただ一箇所だけ強烈に印象に残って一生忘れられない箇所がある。
エーテルの中を突き進む地球
という表現だ。*1ここで言うエーテルは、もちろんファイナルファンタジーのMP回復薬のことではなく、光の媒質として仮定されていたエーテルのことである。
私はこの部分を読んだとき本気で椅子から転げ落ちるかと思った。これは二重、いや三重の衝撃だった。最初の衝撃はもちろんヒトラーがエーテルに言及しているということだ。つまりマイケルソン・モーリーの実験は19世紀末、アインシュタインの特殊相対性理論は物理学の奇蹟の年1905年、ヒトラーが死んだのは1945年で、我が闘争が書かれたのはその2,30年前だろうから(今調べたら1923年頃)、ヒトラーはエーテルなど不要な仮説であることを知っていると思っていたわけである。
これは冷静に考えるとかなりバカな話だ。現在当たり前の科学理論が、提唱されてすぐに受け入れられたわけではないことは、当然知っているつもりであった。さらに学説として正しいと認められたからといって、それがすぐに社会一般にまで行き渡るはずがないということも、もちろん承知していたつもりであった。従って、特殊相対論から20年後ぐらいに書かれた我が闘争にエーテルが普通に出てくるというのは、十分予想しえたはずであった。
そうであるにも関わらずヒトラーがエーテルに言及していることに驚いてしまったということが第二の衝撃であった。要するに何も知っていなかったのだ。教科書に出てくる数字を覚えていることと本当に知っていることは全く違うのだ。
そして第三の衝撃は、ヒトラーが特殊相対論を知らなかったことを私が知らなかったことをそれまで知らずにいたこと(ややこしい!)である。その日まで私がヒトラーについて何かを考え評価するとき、その判断の全ては彼が特殊相対論を知っていてエーテルなど不要な仮説となったことも知っているという前提の元で行われていたのである。
それのどこが衝撃なんだって? もちろんヒトラーが相対性理論についてどう考えていたかはどうでもいい。だがちょっと考えればすぐわかるように、これは相対性理論だけでなく他のありとあらゆる物事に成り立つ話なのだ。
たとえば今日、遺伝子の物理的実体はDNAであって、二重螺旋構造を取る巨大分子であることは常識であり、ほとんど誰でもが知っている。だがワトソンとクリックの仕事によってその二重螺旋構造が最終的に確定したのは1953年であり、1945年に死んだヒトラーは生涯それを知ることはなかった。知ってた?
ほとんどの人は「そりゃもちろん知ってたよ」と言うだろう。実際に知っていた人が大勢いるであろうことも当然否定しない。だが前半の話をもう一度読み直して本当に、本当の意味で知っていたかどうか考えてほしい。今までヒトラーも当然DNAの構造ぐらい知っているものと考えてはいなかっただろうか? 「嘘だ! 俺はそんなトンデモなことを考えた事なんてない! あるもんか!」と思うかもしれない。確かにそうかもしれない。だが本当にそうならば、では一体どう考えていたというのか教えてほしい。
人間がコンピュータと違っていちいち事細かに詳細なデータを与えられずとも思考できるのは、非常に多くの物事を常識として扱えるからである。「パンはパンでも食べられないパンは?」というなぞなぞがなぞなぞとして成立するのは、パンというものは(特に留保条件をつけなければ)食べられるのがデフォルトであるという常識が働いているからだ。
現代では人はDNAに関する知識を持っていることが常識と思っており、しかもこれまでヒトラーの時代の生物学について特に考えたことがないのであれば、やはりヒトラーもDNAに関する知識を持っていると考えていたとする方が妥当だと思う。このことは相対性理論のことと違ってどうでもよいとは言えない。当時の遺伝学・生物学がどのようなものであったと考えているかは、ナチズムの評価そのものに直結するからである。
私は、反ユダヤ主義の伝統と無関係のはずの日本でもホロコースト否定論が一定の割合で存在しうる理由が大きく分けて三つあり、そのうちひとつは“これ”だと思っている。ちなみに他の二つのうち一つは第二次大戦で同じ枢軸国側だった関係でナチスドイツの戦争責任を軽減することが日本のそれも軽減することになると考える傾向、もう一つは欧米で新ナチ的、ホロコースト否定的言論が禁止されていることへの反発(単純に禁止されているものは魅力的に映りがちである傾向+そんなに必死で否定するのは本当だからに違いないという陰謀論的思考)である。
たとえば「戦争中だというのに莫大な費用と手間を費やして人間を殺すためだけの施設を建設するなんて理屈に合わない。だから絶滅収容所などというのは捏造に違いない」というような意見が生まれるのは、明らかに当時の思想状況の無理解によるものだ。メンデルの遺伝法則は知られていて分子遺伝学は知られていなかった時代、「劣等者」の排除によって人類全体が向上できるということがどれほど自明に思えたか(たとえ今となっては雨乞いのまじないと同じぐらい意味不明だとしても)がわからなくなってしまっているからだ。たった今こんな命題を思いついた。
- 人種や遺伝について利用できる真実の知識の格差は、アリストテレスとヒトラーの間よりも、ヒトラーと私達の間の方が大きい。
どう? 何か文句ある?*2単なる適当な思いつきなので、正しいかどうかわからないし、第一知識の差をどう定義すればいいのかわからないから正解などあるはずもないが、私には一概に間違いとも言い切れないと感じる。
要はヒトラーの時代以降、人種や民族や遺伝について私達が得た知識はそれほどまでに圧倒的だと言っているのだ。そしてその多くが分子遺伝学の発展によっている。たとえばWikipediaの人種の項を見てみよ。『銃・病原菌・鉄』を読んでみよ。どちらも分子遺伝学なしにはあり得なかった知識である(今ワトソンが人種差別発言で非難されているのはまさしく歴史の皮肉としか言いようがない)。
以前にもコンラート・ローレンツに絡んで過去の常識を認識することの重要さを強調したことがあるが、現代の常識を当てはめたままナチズムを評価するとそれはあまりにも荒唐無稽に見え(当然だ)、先のようなホロコースト否定まで行かないまでも「ああ、ヒトラーは頭がおかしかったんだろう」といった風に矮小化してしまうことになりがちであり、これは危険である。
現代では当たり前だと思われていることの中にも、未来の価値観から見ればナチズムに匹敵するほど荒唐無稽で野蛮の極みと思われることがいくつか(そんなには多くないとしても)確実にあるはずなのである。私には言語多様性に対する無理解などがその有力候補であると思われる。
多くの言語が最低限の記録すら残さずに消滅していく一方で、より多くの人が世界公用語として英語を使うようになることが当然で、良いことでさえあるかのように思われている(私もある程度まで思っている)現代の状況は、ある程度以上未来の我々の子孫にとって恐怖と侮蔑の対象であり、当時はそれが当たり前だったんだ! と私が墓の中からどんなに抗議しても、彼らは絶対に許してくれないだろう。私達が魔女狩りに参加していた農民達にもそれぞれ言い分があったであろうことなど一顧だにしないのと同じように。
新曜社
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*1:資料が手元にないが間違ってはいないと思う。いずれにせよ本全体の主題とはあまり関係ない。〜地球の上で我がドイツ民族は云々とかいう単なる「地球」の飾り言葉だったような気がする。
*2:「アリストテレスをヒトラーなんかと並べんなよ」以外で。
おまけ
ドイツ(……なのか?)繋がり。全てが狂気。
■心は傷つけてなんぼ
というのは私の座右の銘のひとつ。例によって例の如く『表現の自由を脅かすもの』から関係ありそうなところを引用。それにしてもこの本も入手困難になってるみたいだな。『人間の測りまちがい』もそうだけど最近人に薦めたいよい本ほど入手困難になっている。
最近進行している事柄の中にあるのは、人々の感情を害したくない、あるいは少なくとも社会的烙印を押されると特に傷つきやすいと見られるような人々の感情を害したくないという欲求に他ならないと理解しても良かろう。
どうしてか、「自由な」とは「良い」という観念、自由知識体制は、物分かりの良さ、寛容性、自尊心、偏見や先入観の排除などを育むものであるという観念が出来上がっていた。そうした印象こそ人を誤らせる。自由科学というものは、好き勝手と共に規律をも要求し、このルールを放棄するか馬鹿にする人達にとっては、残酷ともなり得るというのが真実である。それは、寛容でもあるが、排除もし制限もする。それはクールな超然性に劣らず偏見をも成長させる。それはあなたの感情など意に介せず、真理発見の名において平気でそれを踏みにじる。正直に言ってしまえば、それは時として犯罪を助長させさえする。自尊心、物分かりの良さ、他者の信念に対する尊敬、偏見の放棄など、全て大変結構なことである。しかし、これらを優先的な社会目標にしてしまうと、人間の知識の平和的生産的発達とは相容れなくなる。知識の発達のためには、時には我々全てが苦しまなければならない。それどころかもっと悪いことには、我々は他者を苦しませねばならない。
「現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。
こう言って迫られると、人道主義者達は、頑迷な考えや悪しき考えは、酷く不快なものである、人々の自尊心を害する、一種の虐待である、等々の修辞的な言い回しに後退する。有害な言葉を〈嫌な〉とか〈耳障り〉とか言うことさえ、言葉の与える害を軽視するものだと彼らは論じる。「〈嫌な〉とは、傷害または犯罪が表面的なものに止まり、心の広い(〈自由で思いやりのある〉)人だったら受け入れないまでも許容しうるということを示唆している」とスタンレー・フィシュは書いている。「言論の効果が、良きにつけ悪しきにつけ、芯にまで達し得るという考えは、全然持たれていない。全てが無重力の言葉の上でのやり取りといったレベルに止まっている。ある種の言論が、人をずたずたにするような害を与えるといった考えは皆無である。」暴力の隠喩(「ずたずたにする」)への後退に注意していただきたい。また回りくどい言い方にも注意して欲しい。確かに、「ある種の」言葉は「芯にまで達し」得る。しかし、全体としての問題は、どんな種類の、どんな言葉が、そしてどうやってそれを告げるのか、どれくらい深く芯にまで、というのはうんと深くか、などである。気に障る程度を測るメーターがあれば、問題を解決することができるだろうが、そんなものはないので、「現実に人達が傷つけられている」という苦情は、誰が傷つけられているのか、何時、どんなに酷く、あるいはどれくらい沢山というのは、うんと沢山か、などについて何も語ってくれない。そうしたメーターが存在したとしても、それでも問題は残る。「芯にまで達する」ような真実の言葉は、ではどうなのか。「芯にまで達する」ような役に立つしかし厳しい批判は、どうなのか。生物の先生がダーウィンは正しいと公言したあとで、創造論者がわっと泣き崩れて大学を退学すると想像してみよう。それは「ずたずたに切り裂くこと」なのか。それは、止めさせるべきことなのか。
おまけ
みんなのうたの傑作と言うと必ず話題に上るもののひとつ。私もこれは好きだった。
■中島敦『山月記』
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
ここまでで原稿用紙一枚半分。信じられん。続きは青空文庫でどうぞ。
おまけ
■ガイア教の天使クジラ その5
(ガイア教の天使クジラ
その4 の続き)ずいぶん間が空いたが久しぶりに続きを書く。あちこちからリンクされているのは喜ばしいのだが、若干誤読されていそうな気配も出てきたのでちょっと今までの流れを止めて、この一連のエントリで扱わない物事は何かということを書く。
まず、反捕鯨運動の始まりやそのきっかけに関しては扱わない。昔調べた名残でまんざら知らないわけではないが、一切扱わない。これらは(少なくとも私にとっては)どうでもよいことである。
仏伝でいえば毒矢の譬。山火事で煙に巻かれている時「この火事のきっかけは、落雷か、放火魔か、タバコのポイ捨てか、子供の火遊びか、DQNのバーベキューパーティーか、それを知りたい。解明するまで逃げたりしないぞ!」と考えることは明らかに馬鹿げている。そのような時に必要とされている知識は、火を消す方法であり、煙から逃れる道筋である。
どうも2ch等では反捕鯨運動が始まったきっかけはベトナム戦争での枯れ葉剤使用による環境破壊への非難をそらすためのCIAの謀略だったことになっているらしい。私はそれが本当かどうかは知らない。わかるのは私がCIAだったら是非やってみたいということだけだ。
かつて悪の組織大好きの子供だった私にとっては国家予算を使って愚かな諸国民同士の憎しみを煽り立てて利益に繋げるなんてシチュエーションは想像しただけでも快感で身悶えする。ただし私がCIAの上層部だったら、そのような風が吹けば桶屋が儲かるみたいな胡乱な計画を持ってくる奴はクビにするだろう。
私は、このような陰謀論は、(ここまで書いてきたような)本当の事情を直感的に理解することの難しい人間(ここでは日本人)が、観察される事実との矛盾を説明付けるためにひねり出したものであることの方に金を賭ける。他の多くの陰謀論が同じような要請で生まれているように。
次に、反捕鯨運動が政治利用されているとか、自然保護団体の資金集めに利用されているとかいうことも扱わない。この世に人の感情を強力に掻き立てるものがあれば、政治家や商売人がそれを利用しようとするのは当たり前である。
幻影随想: 日本の子供を反捕鯨プロモの標的とするオーストラリア政府
でオーストラリア政府作成のビデオの存在を教えてもらった。
見ればわかるようにこれは実際は日本人に向けてのものではなく、そのような働きかけを行っている政府を自国の選挙民に向けて宣伝する動画である。
オーストラリアの政治家の仕事は日本人の気分を良くすることではない。私がオーストラリアの政治家でも同じことをする。現に「我々は捕鯨反対のために戦っています」と言うだけで票を入れる人間が大勢いるとわかっている時にそうしないで一体どうするというのだ。
私は「私がそうしなければ私よりもっと人種差別的なあいつがそれを利用して政権を取ってしまう危険をあえて犯すことになるのだ。それは日本人にとっても不幸である」というような言い訳をいくらでもすることができる。言い訳のみならず、実際それが正しいこともありうる。
私が自然保護団体でもやはり同じことをする。オゾンとか二酸化炭素とかいう難しいことは一切わからないが、一言クジラと言うだけでポンポン金を出す気のよい人たちが現実に目の前にいるというのに、あえてそれを諦めることに一体なんの意味があるというのか。
クジラがどうあれ人種差別的な白人も白人にコンプレックスを持っている日本人も常に腐るほどいるのだ。ちょっと日本人を不愉快にさせるかもしれないからといって、ちょっと人種偏見を助長するかもしれないからといって、本当に地球を救うかもしれない資金を目立って減らすようなことをするならば、どう考えてもそれは犯罪ではないか。
オーストラリアの政治家は「このような素晴らしい動物が生存しない地球に住むことが想像できますか」と言っている。一般論として、大の大人が4歳児にもできるはずのことを「できない」と言う場合、実際には「したくない」と言っているのだと解釈すべきである。
オキノテヅルモヅルやコウガイビルやイボイノシシやコビトカバ(だからなんだというわけではないがイルカ・クジラ類に一番近縁な動物はアシカやオットセイではなくカバだ)が生存しない地球に住むことは想像できるのに、クジラが生存しない地球に住むことは想像したくないというのは一体どういうことなのだ?
なぜクジラなのだ? クジラは彼らにとって何なのだ?
痛いニュース(ノ∀`):「イルカは心優しい動物。殺される理由ない」 人気女優ヘイデン・パネッティーアらが日本のイルカ捕殺に抗議→漁師たちと海上でやり合う
「オゾンほど心優しい分子はない。壊される理由ない」と言って身体を張って止めようとする人気女優の一団がいないのはなぜなのか。イルカがいなくなってもたぶんメチャクチャ困るようなことは何も起きないのに対してオゾンが「絶滅」したら我々の思い描くような普通の生活はほとんど不可能になってしまうというのに。
なぜイルカなのだ? イルカは彼女らにとって何なのだ?
私が説明したいのはこれらのことだ(すでに一部は説明できたと思っている)。誰かがこの問題を政治利用しているとか金にしたりしているということではない。そんなことは見ればわかるのだ。もちろん喜ばしいことだとは思っていないがこれらを批判するのは他の人にお任せする。(とは言え、この先そのあたりの事情を押さえておかないとわかりにくい部分も出てくるので、あまり知らない人は、スーパー・ホエール − 環境保護運動における作り話とシンボルの利用を読んでおくことをおすすめする。)(つづく)
おまけ
まあ口直しにこれでも観ようぜ。
■ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
プラトンの『国家』と共通点のある本。その共通点とは、初めて読むとき最初の一章を飛ばせ! 必ず飛ばせ! というもの。
最初の一章がアメリカのモンタナ州の話なのであるが、これが本の中で一番、そして唯一、実につまらないのである。アメリカ人なら自国の話から入ることによって興味が沸くのかも知れないが(少なくとも作者の意図はそうだろう)、アメリカ人でないのなら絶対に次のイースター島の章から読み始めるべきだ。
ちなみに『銃・病原菌・鉄』と同じジャレド・ダイアモンドの本でもある。面白さは『銃・病原菌・鉄』の方が大幅に勝っているが、過去と未来からの有無を言わせぬ挟み撃ちという感じで、合わせて読むと一層インパクトがあり、おすすめである。内容については懐適堂読書日記のそれが素晴らしいので繰り返さない。Google Earthは思いつかなかったなあ。今度似たようなことがあればやってみよう。
草思社 (2005/12/21)
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おまけ
本文とは無関係……、でもないかもしれん(なぜかは本を読んでね)。
■スティーヴン・ジェイ・グールド『神と科学は共存できるか?』
誰だつまらないとか感心しないとか言ってるのは。十分面白いじゃないか。まあ確かにグールドの本の中では、一番つまらないのは認めざるを得ない(個人的には『2000年問題』よりは面白かったが)。
しかし、題材が題材である。なんと言ってもこれは何百年も前から確立している道徳原則と科学哲学の再確認に関する本なのだ。およそ本の題材として(あるいは何の題材としてでも)これ以上つまらないものがこの世にあろうか。
思えば私の人生で出会った本の中で最もつまらなかったものは小学校の道徳の教科書だった(今考えると「道徳の教科書」というものはなかったはずなので、副読本か何かであろうが)。将来アニメや特撮に出てくるような悪の組織を作ってこんな死ぬほどつまらないものを子供に強制しようとする大人をみんな怪獣の餌食にしてくれるわと子供心に誓ったものである。
……なんだか話がずれたが、普通に書いたらそれぐらいつまらなくなっても全然おかしくない話題なのである。これを曲がりなりにもここまで面白く書けるというのはやはりグールドはただ者ではない。冒頭の2ページ分がちょうど全体の趣旨の説明としてふさわしいと思うので引用しておく。
私がこのささやかな本を書くのは、あるひとつの問題に対する幸いなほど単純、かつ、まったく平凡な解答を述べるためである。どんな問題も、感情と歴史の重荷に苦しめられすぎると、明瞭な筋の通った小道が論争と混乱のもつれで藪に覆われてしまうことがある。私が本書で取り扱う問題とは、「科学」と「宗教」とのあいだにあるとされている対立である。この論争は、人々の心と社会的な実践のうちにのみ存在するのであって、科学と宗教という互いに全く異なり同等に大切な主題の論理や適切な有効性のなかに存在するものではない。本書で述べることは基本的な議論であって、私の独自の見解は何一つ加えていない(ただし、例を選ぶのは若干の工夫をしてみたい)。なぜなら本書での議論は、科学界と宗教界の指導的な思索化によって、何十年も前から認められてきた確固たるコンセンサスに従っているからである。
私達人間には、物事を総合したり統一して考える傾向がある。しかし、それゆえに、しばしば見えなくなっている問題がある。それは、私達の複雑な人生における切実な問題の解答は、多くの場合、原理に基づく敬意を伴う分離、という正反対の戦略の中に見つかるということであうる。
善意の人々は、科学と宗教が平和的に共存し、私達の現実の生活と倫理的な生活を、ともに手を携えて豊かにしてくれることを願っている。この尊重すべき前提から出発して、互いに協力して活動するのだから方法論と主題も共通しているはずだ、という誤った推論がしばしばなされている――なんらかの壮大な知性の枠組みが、たとえば信仰というものの知りうる事実の部分を自然に組み込むことによって、あるいは宗教の論理を無神論を不可能にするほど無敵なものに作り上げることによって、科学と宗教はひとつになるだろうと思いこんでしまう。
しかし、人間の身体を維持するには食べ物と睡眠の両方が必要なように、どのような全体も適切に維持されるためには、それぞれ独立した部分の本質的に異なる働きに頼らなければならない。現代的な多様性を謳歌する隣人達の暮らす数多くのマンションで、それぞれが各自の一生を充実したものにしていかねばならないのである。
私には、科学と宗教が、どのような共通の説明や解析の枠組みにおいてであれ、どうすれば統一されたり統合されたりするのか理解できないが、しかし同時に、なぜこのふたつの営みが対立しなければならないのかも理解できない。
科学は自然界の事実の特徴を記録し、それらの事実を整合的に説明する理論を発展させようと努力している。一方、宗教はといえば、人間的な目的、意味、価値、――科学という事実の分野では、光を投げかけることはできるかもしれないが、決して解決することのできない問題――という、同等に重要であり、しかしまったく別の領域で機能している。同じように科学者も、自分たちの営為に特徴的な、何らかの倫理的な原則に従って仕事をしているはずだが、この原理の有効性を、科学によって発見される事実から引き出すことは決してできない。
この本はドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』とセットで語られることが多い。2人の意見の違いはいつものように些細であると同時に本質的でもあり、見比べてみるととても面白い。セットで読むことをおすすめする。
ちなみに私はこの問題については100%グールドを支持するが、これらの本が主に英米の読者を想定して書かれているために、日本では非常にわかりにくいこと、および、むしろドーキンスが普通でグールドが過激なことを言っているかのように見えてしまうことがあり得ることを承知している。しばらくは機会があるごとにこの2冊と周辺の話題について書いていくことにしたい。
おまけ
ひいいい! 後ろに誰かいるっ!!(笑) これは面白い感覚。
■人種差別問題でオススメの本3冊
ワトソン発言の件(finalventさんのまとめを見ればいいと思う)で何か書こうと思っていたのだけど、ちょっとまとまったものを書く暇がなくて出遅れてしまった。やはり日本ではこの件での認識の甘い人が多いと感じる。
誰とは言わないが、ワトソンと同レベルの剥き出しの偏見をしっかり抱いている人が、ざっと見るだけでもかなりの割合でいる。彼らとワトソンの違いは、反発を受けるとわかっている発言をあえてする自信を与えるノーベル賞を欠いている(当たり前だが)ということだけだ。
近くもうちょっと突っ込んだことを書くかも知れないが、とにかくまずはグールドの『人間の測りまちがい』を読んで欲しい。これ一冊で十分と言ってもいい内容なのだが、いかんせん入手困難である。なんと言っても私も持っていないぐらいだ(ただし買えなかったためではなく近所の図書館でいつでも借りられるのでその必要がなかったためだが)。
現在Amazonでも在庫なしで……、中古25000円って何よ!? まあ25000円でも十分その価値のある本ではあるが、これではさすがに躊躇する。まったくひどい話である。復刊すべきだ。
下のように英語版のペーパーバックは2000円ほどで手に入る。英語でもいいという人ならこれでいいだろう。私もこちらは持っている。ただし、ただでさえ難しい話なのに英語版を読むには相当な力がいるだろう。私も日本語版をすでに何度も読んで内容が全部わかっていればこそ英語版でも我慢できるが、最初からこれを読めと言われたら途中で投げると思う。
W W Norton & Co Inc (1996/06)
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搦め手として黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫るという本の、スポーツ限定の話以外の部分の記述がかなり『人間の測りまちがい』に寄っており、ダイジェスト代わりとして読めなくもない。しかしこれもAmazonの在庫がすでに中古を合わせて4冊しかない。
また、やや違う方向からの話になるが最近まとめを書いた『銃・病原菌・鉄』も、人種差別問題を主題とした本ではないにも関わらず、伝統的な人種差別観念の解消に役立つ本だと思われる。こちらは入手も容易でおすすめである。
おまけ
伝説の不条理系flashの1つ通称VIP先生。







