ガイア教の天使クジラ28

(今日の一コマ)

 『イルカと話す日』を読み進める前に、ちょっと補足しておかなければならないことがある。私はリリー博士のことを「ガイア教史上最重要人物」と呼んでいる。私はそれが適切な表現であると思っているし、今後も変わらない。

 ただしそれが「彼がいなければガイア教は生まれなかっただろう。」とか「彼がいなければ反捕鯨運動などなかっただろう。」というような意味に受け取られているなら、私の意図に反する。ここまででもすでにある程度は理解してもらっているはずだと思うが、私がシリーズ全体を通して伝えたいのはまったく逆のことである。

 ガイア教は一般的な日本人にはいくら奇妙奇天烈に見えても、本当は少しも突飛なことでも不思議なことでもない。それどころか極めて自然で当たり前で必然的な現象であって、特定の誰かが「原因」だとか「元凶」だとかいうような考え方はまったく必要ないどころか、むしろ有害であるということを言っているのである。

 違う分野でたとえるなら、もし手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに何の異論もない人でも「手塚治虫ただ一人がこの世に産まれなかったら現代日本のサブカルチャーの特殊な発展はなかっただろう」という意見には必ずしも同意できないだろう。それは知識の不足からくる過剰な単純化・無分別な神格化であり、正しい理解のためにはむしろ有害だと言わなければならないだろう。

 一般に歴史において特定個人が果たす役割の大きさはかなり過大評価されている。その方が理解しやすい、というよりはそうでもしなければ理解できないという理由でだ。人間の頭は複雑な歴史をありのままに理解することなどできない。まったく理解できないよりは、たとえ不適切な単純化を施してでも、ポイントを抑えて大雑把には理解できる方がはるかにましである。

 一人の人間の発想は必ず過去の膨大な蓄積に基づいており、完全な独創でまったく新しいものを生み出せる人間など実際にはいない。(ちょっとでもそれに近いことができる人間は天才と呼ばれる。)もしいるように見えたら、それは観察者の知識の不足を意味するものに過ぎない。

 ただし、漫画史における手塚治虫がそうであるように、それ以前の全てがそこに流れ込み、それ以後の全てがそこから流れ出るような、焦点と呼べるような人物はいる。全てを詳しく知り尽くすには時間も能力も足りていない我々が歴史を勉強するのに一番ましな方法は、そのような人物を追うことである。

 私がリリー博士をガイア教史上最重要人物と呼ぶのはそのような意味においてのみである。このことはまだ納得してもらえないとしても、この先リリー博士やその精神的後継者の思想を見ていく上で徐々に理解してもらえるようになると思っている。

序章

 本書の読者に、私はイルカに関する新しい学説をいくつか紹介したい。若い世代の多くの人びとが私と同じ学説を主張しているのである。本書ではこうした学説の基礎となったもの――体験と実験、そしてそこから導きだされた推論――を紹介する。

 この本の次回以降の部分では「体験と実験」の部分と「そこから導き出された推論」の部分の境界に注目してもらいたい。そこが現代(約半世紀前ではあるが)の“理性と神秘の境界線の位置”だからだ。

 脳の構造とクジラ類の行動に関して、さまざまな事実が発見され、整理されて、多くの生物学者や水族館でイルカやクジラを飼育している人びとが従来主張してきたものとは真っ向から対立する学説が生み出され、理解されるようになった。手短に言えば、この新しい思想はこう主張している。大型の脳を持つクジラ類はどの人間よりもすぐれた知性を持っている、と。従来の学説は、イルカとクジラにたいする無知にもとづいており、彼らとの直接的なふれあいを欠いていた。

 脳の構造・大型の脳・脳・脳・脳。

 これまで人類の学説はさまざまな衝突を生み出してきた。政治、領土、宗教、法律、男と女の関係といった領域で衝突が生まれた。これにたいし、クジラ類に関する新しい学説は、個々の人間に関して、そして政治、社会、さらには科学に関して、疑問を投げかける。人間は地球を変えつつある。

 えーと、あなたの学説は回り回って(少なくとも日豪間では最大の)とんでもない国際問題を生み出してしまってますが……。これまた狙ってやっても決してできないであろうものすごい皮肉だね。私はこういう物事が好きでたまらない。わざと不適切な言い方をするとこういうことにこそ神を感じる。

 人間は地上の大型の哺乳類をことごとく殺戮してきた。北アメリカに生息していた大型の哺乳類は、人間の手で絶滅に追いやられた。アフリカの哺乳類は、その生息領域に人間が侵入したために激減した。海に棲む哺乳類は、人間が侵入してきて自分勝手に捕獲したために、絶滅の危機に瀕している。

 これは重要なことなので第4回で一度詳しく言っているし、これからも折に触れて繰り返すが、ガイア教徒の「クジラを殺すな!」という叫びに「お前らだっていっぱい殺してたじゃないか!」とか「お前らもカンガルーとかディンゴとかいっぱい殺してるじゃないか!」とか言い返すのは論理的にも戦術的にもまったく間違っている。

 それはまったく効果がないばかりかむしろ逆効果をもたらす。彼らの行動が過激なのは、過去を忘れて反省していないからではなく、反省しすぎて安易な救済に飛びつかざるをえないほどの激しい罪の意識に苛まれているからだ。*1そんな反発は彼らの罪悪感をさらに掻き立て、ガイア教のありがたさを増すばかりだ。

 なんで捕鯨に反対したら救済されるのかって? 私に聞かないでくれ。それがガイア教だからとしか答えようがない。なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。キリスト教徒なら説明してもらう必要はないし、説明されて理解できるならその人はすでにキリスト教徒である。

 以前(一九六五年以前)私は、人生における究極の目的は、完璧な客観性を備えた科学的観点を保つことであり、絶対中立の科学的観察者の立場を維持することだと考えてきた。しかしいまでは、こうした公平無私のエコロジー観は何の役にも立たないと確信している。社会的な責任を取ること、つまり自分の属する種から自然へのフィードバックに力を貸そうとしない科学者は、社会に奉仕するという限られた役割を越えて、人類としての責任をまっとうすることはできない。自分の拠りどころを明確にし、行動を起こすことこそ、自己と自己の属する種を理解し、絶滅から救うための不可欠の条件である。

 第20回を読み直そう。私は「このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。」と書いた。これがその一部だ。

 客観性を奉ずるあまり無慈悲になってしまった過去の科学を深く深く反省した結果、今度は慈悲を奉ずるあまり客観性を軽視してトンデモになってしまった、というわけだ。わかってみれば簡単なことでしょ? あちらを立てればこちらが立たず、科学とは難しい活動なのです。

 われわれ人類は新しい倫理、新しい法律を必要としているが、それは自分たちと同じか、それ以上に大きな頭脳を持つ他の動物のライフスタイルと生活圏への侵略を禁ずる倫理の上に築かれなければならない。われわれは法律を改正して、クジラ類を個人や企業、政府の所有物であることから解放する必要がある。法律において、個々の人間の尊厳が貴ばれているのと同じように、個々のクジラ、イルカに対しても敬意が払われるべきなのである。

 どっかで聞いたような台詞じゃないかい?(参考)

 火薬の爆発力を利用してクジラの体内に打ち込まれ、その噴気孔から大量の血を噴き出させる爆発型の銛は、悪夢のように多くの人びとの心を苛みつづけている。クジラの断末魔の叫びは世界中の海であがっているのに、その叫びをあげさせている張本人たちの耳には聞こえていない。自分たちは産業用に必要な大量の食肉を確保するためにクジラを殺しているのであって、地上で最も大型の、精妙な脳を殺しているのではないと思っている人びとは、そうした考え方を変える必要がある。クジラ類に人間と同じ法律を適用して保護してやり殺戮をやめさせなければならない。

 「それは大型の脳じゃなかったら殺してもいいという意味なのか?(笑)」という反応が生じるかもしれない。しれないどころではない。今回の騒ぎを通じても実際に多くの日本人が同じような台詞に同じような反応を示しているのを見ている。

 何を笑ってるんだお前は? 答えはもちろんYESだ! 今さっきその論理で何百万人か地獄へ送ってきたところだろうが。そんなに可笑しいかよ? いくら不謹慎な笑い大好き人間の私でも引くぞ。

 まさにここで「奇妙だ」とか「馬鹿げている」とか「それは何か他の意図(利権とか寄付金とか)を隠す建て前だ」とかいう風に片づけてしまわないように、私は『人間の測りまちがい』の紹介に時間をかけたのだ。

 イルカを捕獲し、隔離している人びとは、隔離をよりゆるやかなものにして、隔離されたイルカが海中にいる家族や仲間だちとコミュニケーションがとれるようにしてやるべきである。イルカやクジラを隔離するのならば、あらかじめ取り決めた一定期間だけ隔離して、そのあとは本来の生態環境に戻してやり、人間の活動を仲間たちに伝えるようにしてやるべきである。私は現在の水族館がイルカの「監獄」であることをやめて、イルカと人間の双方を教育する、「異種間スクール」になればよいと考えている。

 「異種間スクール」って……あんたでしたか電波の発振源はッ!! そうなんですよユリカさん、これはかわいそうすぎるのであまり言いたくないんだけど、あなたに言及する機会はおそらくこれが最後なので、ここで言っておかなきゃならない。ぶっちゃけた話あなたはLSDでトリップしたおじいさんの妄想の中で生きているのですよ。

 これ以上いじめないので、アトピーに負けずに強く生きて下さい。もっともあなたのような段階までいってしまった方はもういっそ目覚めない方が幸せだと思いますが……(目ざめたところで社会全体も似たかよったかだし)。しかし、私たちはそういうわけにもいかないので先に行かせてもらいます。(つづく)

*1:この罪とそのあがないの強調は、ユダヤ・キリスト教の伝統にうまく合致している。

おまけ

ルービックマジックが復刻されている

ルービックマジック

ルービックキューブは25手で完成可能、米研究者が新解法の証明に成功 - Technobahn

 上のニュースを見てルービックキューブで検索していたら、昔持っていたこれが復刻されているのを発見した。もっとも、様々な点でルービックキューブに比べると遥かに劣る。一番の問題は繋ぎの部分がテグスのせいで耐久性がなくて、ちょっと力の入れ方を間違えたり古くなったりするとすぐ壊れるところで、昔もかなり短い時間で壊れたような記憶がある。今考えるとそこまで面白いとも思えないのだが、かなり懐かしい。買ってみようかな。

おまけ

 これと同じ作者とか。多芸だなあ。

ブラム学園!〜桜咲く塔の下で〜

月刊 アフタヌーン 2008年 05月号 [雑誌]

 のためだけにアフタヌーン買った。なんかもういくらなんでもカオス過ぎてパロディとして成立しなくなりかけてる気がするが。8月刊行予定らしい『弐瓶勉総天然色短編集(仮)』には期待。

おまけ

 るくるくの扉絵がウマウマだと思ったら……うp主は予言者。

ヒトラー〜最期の12日間〜 オススメ度7/10

ヒトラー〜最期の12日間〜エクステンデッド・エディション<終極BOX>

 かなりよかった。ヒトラーの出てくる映画はもちろんこれまでも沢山あったが、ヒトラーはいまだに政治的にホットなので、どうしても配慮というか純粋に映画として楽しめない要素が入ってきてしまう。この作品ですら最初と最後にちょっとだけ入ってはくるが、今までになく徹底的にドイツ側の視点のみで描いている。それにしてもヒトラー役の人は本当にそっくり。日常生活に支障はないのだろうかと心配になってしまうほど。

おまけ

 懐かしFlash。嘘字幕シリーズの源流かもしれない。

吉本佳生『スタバではグランデを買え!』

スタバではグランデを買え! ―価格と生活の経済学

 以前紹介した『まっとうな経済学』にかなりよく似たコンセプトの本。コーヒーから話が始まるところもそっくり。『まっとうな経済学』よりは身近で簡単な内容を取り扱っているので、この本が面白いと思った人には次に『まっとうな経済学』をおすすめ。逆に言うとすでに『まっとうな経済学』のような本を読んでいる人にとってはこの本はちょっと物足りないかも。

おまけ

Moon Whistle XP体験版

Moon Whistle XP 体験版

ムンホイXP体験版、公開されました! - さすけの波乱万丈な日常

 以前紹介した『Moon Whistle』は制作環境が古くて、Win XP環境では正常にプレイできないのが唯一の欠点。リメイクが進行しているのだが、その体験版が出た。思った以上に様々な点が改善されていて、ちょっと見るだけのつもりだったのに、思わず6日目まで通しでプレイしてしまった。本編出たら必ずやるべし。

おまけ

「準児童ポルノ」違法化キャンペーン

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 とかなんという話で盛り上がっているそうで。

 あまり時間を割けないので例によって『表現の自由を脅すもの』からの引用でお茶を濁す。本当に人間の本性というのはいつでもどこでも変わらないもんだなあ。

 アメリカには、どこの国とも同じように、極端にお堅い人達が常に存在した。そうした人達のことをH・L・メンケンはピューリタン――「誰かが、何処かで幸せにしているかも知れないという絶えざる恐れ」に駆られている人達――だとあざ笑った。彼らの好きな攻撃目標は、ポルノであって、神様や、後には、上品さや家庭的価値などを持ちだしてこれをやっつけた。創造論者達の場合同様、彼らは体制側知識層の嘆きや揶揄の対象になった。ところで彼らは、創造論者達がやったように、力のこもった論陣を張ったが、まともに相手にされず、永いこと無視されてきた。

 この堅物達の主張によれば、ポルノは道徳を崩壊させ、社会に脅威を与えるから有害だというのである。猥褻禁止の反対論者がしばしば指摘するのは、猥褻と芸術、いやらしいものと美しいものの境界線は、原則的にも、ハッキリさせることは不可能だということである。ハッキリできないからこそ、下品なものの禁止が、真面目な芸術にまで及ぶということになりかねない。イギリスとアメリカで、ジョイスの『ユーリシーズ』が発禁にあい、官憲によって船積み直前の本が差し押さえられ、焼かれたということが、この点に関する不朽の証拠だと、彼らは指摘したのである。

 ところで、『ユーリシーズ』を堅物達から護るという戦いは、リベラルな裁判所の助力によって間もなく勝利した。今日でも、相変わらずこうした堅物達は再浮上してきている。1989年、シンシナティの現代美術センターの館長が、ロバート・マップルソープの作品である同性愛的写真を展示したというので、裁判沙汰になって注目を集めたし、1990年には、ラップ・ミュージックのグループ2「ライブ・クルー」が、露骨でひどい歌詞のせいで裁判に掛けられた。しかし1980年代頃には、ポルノ反対の活動家達は、もはや議論を支えきれなくなっていた。公金がからんでいる場合は別として、彼らに反対する立場の方がのしてきた。

 だが、これまた、話はこれで終わりというわけではない。ピューリタン流の道徳的恐怖に付随するか、あるいはその底にあるのは、人々や社会は、汚い言葉やひどい映像で害されつつあるという反対意見である。しかもこうした議論は、社会がポルノに対してますます容認的となってきても、なくなりはしない。その代わり、この議論は、さなぎのように繭の中で眠り、やがて前よりも強力な姿で再登場するのであった。

 きっかけはやはりポルノであった。しかしこの度は、攻撃はより精緻となり、しかもそれは、ピューリタン的道徳家からではなく、女権論者の方からやってきた。女権論者の議論は、しばし持ちこたえたが、すぐにより広範な立場に合流していった。議論の核心は、ポルノは女性を侮辱し、抑圧を助け、女性自身の権利を否定することによって女性を傷つけるというものであった。1983年、批評家にして学者でもある有力な女性論者のキャサリン・A・マッキノンが語ったところによると、ポルノは「人口の半分に対する待遇と地位を決める暴力的差別的態度や行動を生じさせるもの」である。現に生身の人達が傷つけられている。メアリ・Sとか、ベス・Wといった女性が、そうしたものに触発された犯罪人によってレイプされたり殺されたりした。そして、こうした実際の恐怖の現実があるにもかかわらず、伝統主義的男性権力構造は、性的暴力や支配の場面を売り物にするポルノ制作者の権利を保持してきた。女権論者たちには信じられないことであった。ここにも、女性の人権を蔑視する家父長制のもう一つの印があると、彼女たちは言った。

 彼女たちはいささかの成果を得た。マッキノンや他の人達に動かされて、インディアナポリス市はポルノを性差別として起訴しうる反ポルノ法を制定した。(この法律は、後に、違憲と判定された。)1989年には、同趣旨の法律案が議会に提出された。あなたが性犯罪の犠牲者であり、その犯罪と、何らかの「特定ポルノ資料」の間に関連性があることをあなたが示し得るならば、受けた損害に対してその資料の制作者又は頒布者を告訴しうる権利があなたにあるとするものである。こうした法律に関する憲法問題は今はさておき、害されたら告訴できるというこの論旨は、説得力があるように見える。

 問題は、特定個人が、犯罪者によってレイプされ傷つけられたのであって、ポルノ映画によってではなかったということである。「如何なる立派な研究や証拠をもってしても、ポルノと現実の暴力の間に因果関係があることを示し得たものはない。」デンマークのある報告によれば、「ポルノが合法化されている国では、レイプや性犯罪の犯罪率は現実に低下してきた。」何らかの特定犯罪と、何らかの特定ポルノ作品との関連性を示すことは、困難又は不可能であった。ともあれ、従来からの理論によると、あなたは犯罪者を罰するのであって、犯罪者の頭の中にあったかも知れない観念や、観念を植え付けたかも知れない人を罰するのではない。ある馬鹿が、ヒトラーの『我が闘争』を読んでユダヤ人を殺したからといって、この本の販売を法律違反にするべきだろうか。従来からの理論によれば、勿論ノーである。それならまた、誰かが聖書のカインとアベルの物語を読んで自分の兄弟を殺すかも知れない。あるいはまた、誰かが「魔法使の女は、これを生かしておいてはならない」(「出エジプト記」22章18節。原文にはないが訳者注として聖書の引用箇所を指摘しておく)とあるのを読んである女性を殺すかも知れない、さらにまた、エリシャ(「列王紀下」2章24節)の物語を誰かが読んで悪い子供達を殺すかも知れないからといって、聖書の販売を非合法化すべきだろうか。馬鹿どもが読んで興奮するような本や言葉を禁止するということは、我々の中の一番低級な輩に、我々が何を読んでいいか、何を聞いていいかを決めさせることになるのである。

 こうした問題を前にして、女権論者達は自分達の議論を拡大した。そしてここでの議論は、本書の観点からすればとりわけ興味深い。問題は、特定の猥褻本や映画に誘発された特定の犯罪によって、特定の人達が被害を被るかも知れないというに止まらなかった。問題はさらに、ポルノによって女性が一階層として被害を受けるということであった。マッキノンの言うところによると「ポルノは個々人を、つまり一時に一人という意味での個々人として、害するのではなくて、《女性》というグループのメンバーとして害するのである」。

 女権論者の見方からすれば、ポルノは強制された性の一形態、性の政治の一慣行、性的不平等などの一制度である。この観点から言うと、ポルノは本来自然で健康的な性の無害な幻想とか、堕落し混乱し歪曲された表象といったものではない。それに関連して起きるレイプや売春と共に、ポルノは男性優位の性の制度化であって、支配服従関係のエロス化と男女の社会構成を一体化するものである。男女差には性的な側面がある。ポルノはそうした性的側面の意味づけをする。男性は、自分本位の見方から女性を取り扱う。ポルノはそうした見方を作り上げる。

 別の言葉で言えば、ポルノは男性の女性支配を表現するものとして、男性優位の倫理を伝え、それを現実化する。従ってポルノはそれ自体において女性を抑圧するものであって、ポルノに刺激されて犯罪が起きたかどうかとは別問題である。

 それでは実害の証拠を出せとあなたは言うかも知れないが、あなたはそれがあると期待してはならない。何故なら、ポルノの実害の一つは、それが引き起こす損害を隠蔽するところにあるからである。「そもそもポルノが男性優位の行為だとすれば、その害は、男性優位という害であって、それがあまりにも広範でかつ強力であり、世界をポルノチックな場所にすることに成功しているから、ちょっとやそっとでは見破れない……ポルノが社会的現実を構成するのに成功している程度に応じて、害は不可視的となる。」ポルノによって構成された世界では、ラディカルな女権論者でない人達には、ポルノの害は見ることができない。それはちょうど魚にとって水が見えないのと同様である。それでは、女権論者の主張するようなポルノの実害があるとすれば、それを我々はどうやって知るか。現に害はあるに相違ないのである。ポルノはまさにその本質上、つまりそれが表現するイメージや、それが醸し出す心理的雰囲気によって、抑圧的である。

 興味深い点がここには含まれているので、もう少しこの話を続けよう。言論の自由に関する標準的理論に反対する古い苦情によれば、言論の自由は人々に有害なこと(例えば、「汚い便座からエイズを貰うことがあり得る」といったようなこと)を勝手に言わせることになるというものである。そして古い答えによれば、「有害」は観察者の判断であるに過ぎず、有害な行為というのだったら罰せられるべきであるけれども、言葉や表現されたイメージは、意見や思想の担い手であって、それは別物だというのである。私は口で、「共和党員は一網打尽にして撃ち殺すべきである」と言うことはできても、現実にそうできるわけのものではない。さてそこで、議論の建て方が様変わりしてくる。マッキノンは、前述の引用箇所や別の所でも、哲学者ばりの抽象的理屈を弄して、ポルノが害を惹起するのではなくて、ポルノ自体が害なのであると言う。ポルノは暴力である、とりわけ女性に対する集団的暴力である。そうだからこそ、マッキノンは繰り返し繰り返し、ポルノのことを、一行為として書いてきている。それは、「男性優位の行為」であり、女性差別的社会秩序の「精髄をなす社会的行為」であり、「一つの政治的実践であり」、「強制された性の一形態」であって、「思想というより行為というべきもの」、「性差別の一つの実践」等々であると言っている。

 話すことと行動することは別だとする古いそして確かに時にはややこしい区別は、こうした理論建てによって消し去られつつある。しかも単に理論としてというだけではない。1980年に、アメリカの雇用機会均等委員会は、女権論者の法理論家達に影響されて、職場での言論が、市民権法に照らして処罰しうるセクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)に当たるかどうか決めるための三条件を採択した。これらの条件のうちには、問題の発言が「威圧的、非友好的、又は不快な職場環境」を生み出すかどうかというのがあった。もしある発言が、誰かにとって不愉快な社会状況を生み出したら、もはやそれは単なる言葉でなく、(あたかもポルノが一つの抑圧行為であるのと同様)嫌がらせの行為であると、この委員会は言っているように思われた。

 だからここには、イメージや表現や言葉などが、実際上、加害や暴力の一形態となり得るという理論があった。この理論に注目して頂きたい。そのうわべの顔を忘れないで欲しい。じきにまた出くわすことになるからである。

 ある人達は、あらゆる反対の証拠があるにもかかわらず、そして世間のあらゆる嘲笑にもかかわらず、ある信念に固執することができる。それが称賛に値することもあれば、そうでないこともある。ナチにはユダヤ人絶滅政策なんて無かったという議論に命を懸けたある人が、かつて記した。「私は朝起きるとタイプライターに向かい、最高に凄い意味合いを含んでいる最も単純な事柄を書き留める。全ての歴史家がどのように間違っているか、学者やインテリや大学が皆いかに間違っているか、そして私が正しいということについて記す。」しばしば確信的な信仰者は超自然主義、つまり証拠がないということこそ、そのことの証明だという確信を持ち出す。奇跡には証拠がないというのは、最もよくある超自然的議論の一つであり、奇跡は奇跡だということを示すものに他ならない。ポルノは必ずや、女性に対する暴力を生み出すということについて証拠がないというのも、さらに巧妙な同工異曲の言い方であって、加害を覆い隠す男性優位社会の力を確証するものに他ならない。覆い隠されているからといって、害は害である。古典的な陰謀説として罷り通っている、ユダヤ人は世界経済を支配しているということに証拠がないというのも、いかに巧妙にユダヤ人組織がその痕跡を覆い隠しているかということを示しているに他ならない。他の一切が潰えたとしても、超自然主義は、打倒困難である。

現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。

 私の意見では、ラシュディー事件は、一つの転換点を表している。まさにこの地点から二つの方向のいずれかに進むことができる。しかし立ち止まっていることはできない。

 ホメイニの指令は二つの部分を持っている。それは、宣告、すなわち死の宣告であり、その犯罪は、すなわちイスラム教徒を傷つけたというものである。この指令に対してなされうる多くの反応のうち、二つが特に傑出している。一つは、こんな宣告なんか撥ねつけちまえ、というものであり、二つ目は、こんな犯罪なんか撥ねつけちまえ、である。

 もし犯罪の方を撥ねつけるとすれば、ラシュディーは何も悪いことをしなかったと言える。もし彼が別に何も悪いことをしなかったと言うならば、当然の帰結として、人を傷つけたとされる他の人達――例えば他のアメリカ人を傷つけたとされるアメリカの人達――もまた、何も悪いことはしていないと言わねばならぬ。ある人達はこの立場を取った。しかしこの人たちの中には、主だった西欧の宗教指導者達は入らなかった。パイプスは書いている。「如何なる指導的宗教人や宗教組織も、ラシュディーの困っている時に彼を支持しなかった。」アメリカ政府もまたこれには加わらなかった。大統領の声明は次の通りである。「この本が如何に忌まわしいものであるとはいえ、殺人を教唆し、殺人の実行者に褒美を与えるというのは、文化的行動の基準からして、極めて忌まわしいものである。」この発言の趣旨は、あまり頂けない。つまり、同書は〈忌まわしい〉、死刑の脅かしもまた〈忌まわしい〉、だが一つの忌まわしさはもう一つの忌まわしさを正当化するものではないと言っているようである。

 もう一つのやり方は、この宣告を野蛮で行き過ぎとして撥ねつけるが、犯罪そのものは撥ねつけないというやり方である。人の心を傷つけた人達は、多分追い出すか、公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせるかすべきであるが、しかし、死刑にするというのは、万引きで人の親指を切り落とすようなもので、これはあんまりであるというのである。これこそ大多数の西欧のインテリが選んだか、あるいは今選ぼうとしている道である。もしこの道に従うならば、我々はホメイニの判定を承認したことになり、ただ宣告の量刑についてのみ言い争うということになる。もしこの道に従うならば、我々は、原則的に言って、心を傷つけるようなものは抑圧されるべきであるということを受け入れることになり、それでは心を傷つけるものは何か(ポルノか、ロバートマップルソープの同性愛写真か、黒人に対する誹謗か、ダーウィンの進化論か、共産主義か)を巡って争うだけとなる。

おまけ

 大丈夫、これならエロくない!

ガイア教の天使クジラ27

イルカと話す日

 前回に続きジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読み進めよう。やっと本人の登場。

著者序文

 一九五五年、私はイルカ(本書では基本的にハンドウィルカTursiops truncatusを指す)の科学的研究に着手した。一九六八年、この研究プログラムは終了した。この間、イルカについて大きな発見がいくつもなされた。

 一九六八年から一九七六年にかけて、私は自分自身を含めた人間についての研究に精力を注いだ。この研究はのちに一冊の本(『ディープーセルフ――深層リラクセイションとタンク・アイソレーションのテクニック』サイモン・アンド・シャスター、ニューヨーク、一九七七年)にまとめられ、刊行された。この研究をまとめるあいだに、私は一九六八年から一九七六年にかけて発表されたイルカに関する論文に目を通してみた。その結果わかったことは、一九五五年から一九六八年にかけて私が発表した論文にもとづいて、イルカと人間のコミュニケーション、イルカ同士のコミュニケーションを論じた研究は一つもないということだった。

 ですよねー(笑)。

 すまん、前回他人に笑うなと力説しておいて自分がいきなり笑ってしまった。でもこれで笑うなというのも、それはそれである意味人間性に対する冒涜というものだろう。この本には研究の終わりについては書かれていないが、他の情報源によると「“仲間”を実験のために閉じこめておくのは倫理に叶わない」という理由で飼っていたイルカを逃がして自ら実験を打ち切ったそうである。実情はどうだったのかは知らないが、推して知るべし。

 その後、直接彼の後を追ってみすみす自分のキャリアを棒に振るような学者は、さすがにいなかったようだ。だが後で見てもらうように、彼の精神は一般大衆はもちろん、一部の学者の間にさえ広く生き残ったのである。

イルカと話す日6

 私は一九六八年から一九七六年にかけて他の研究者が発表した論文の目録を作成した。やがて私はこの文献目録を出版したいと考えるようになった。

 これらの論文に目をとおして、私はいまこそイルカについての自分の研究をまとめるいい機会だと確信するようになった。

(中略)

 著者と協力者たちが一九五五年から一九七六年にかけて達成したイルカに関する発見の年表を次頁に掲げた。表中の文献の参照番号は付録の文献解題のものである。

 写真の年表を見てもらおう。すでにあちこちにそこはかとなく微妙な空気が漂っているのが感じられるだろうが、特に「LSDって、あのLSDと同じ略称だけとなんの略?」と思わないだろうか? これは実は他の何の略でもなく、あのLSD、リゼルグ酸ジエチルアミド以外のなにものでもない。彼は自分やイルカにLSDを使うことで互いに交信できると考えた。このあたりは第24回で予習してもらったようなヒッピー文化を踏まえていないとまったく意味不明になってしまうところであろう。

 人類は有史以前から幻覚剤を使って動物と交信をして神秘的な知識を得ようとしてきた。いつごろからと断言できるような考古学的証拠を持つ者は今のところ誰もいないが、ラスコーアルタミラの素晴らしい*1壁画を描いたクロマニヨン人たちがそうしていなかったとしたら驚くべきことだろう。そして今や酒や毒茸はLSDに、雄牛がイルカに道を譲ったというわけだ。人類も随分と進歩したもんだ。

 『針の上で天使は何人踊れるか』で学んだ教訓を憶えているか? 未開人はもっぱら呪術の世界に浸っていたのではなく、自然の力と超自然の力をともども認識し、普段は確実な知識に基づく合理的な手段で自然に対処していたが、あらゆる努力も知識も凌駕する不可知の影響力を統御するときに、呪術に頼った。文明社会も実は同様なのであり、理性と神秘の境界線の位置や知識の体系のあり方、それらと社会の仕組との関係が異なっているだけなのである。

日本語版への序文

イルカと話す日1

 一九七八年に本書『イルカと話す日』を出版したとき、私は揺るぎない結論を得たと考えた。二〇年以上にわたってイルカを科学的に研究し、イルカが生理面でも、精神面でも、特有の能力を持っていると考えてきた私は、この驚くべき生き物とコミュニケーションを交わす方法を習得すれば、人類はいずれ、私が「種の孤立」と名付けている状態に終止符を打てるだろうという結論を出したのである。

 それ以前、正確には一九六〇年に、私は慎重に考えたうえで、次のような楽観的な見通しを述べている。「あと一〇年か二〇年ののちに、人類は他の生物とのコミュニケーションを確立するだろう。人間とは種を異にするその生物は、地球外生物の可能性もあるが、むしろ海洋に棲む生物である可能性のほうが高く、間違いなく高い知性を備えている。おそらく人間と同程度の知性の持ち主であろう」。

 一九九四年現在、こうした異種間コミュニケーションはまだ実現していないが、私はいまだに一九六〇年当時と同じく、異種間コミュニケーションの実現に楽観的な見通しを持ち、希望を抱いている。そしてこのたび本書が日本で刊行されるにあたり、私の初期の研究がいまも人びとから注目され、関心を呼び、私の研究の意義に理解を示す人びとが増えつつあることを嬉しく思う。

 笑った直後であれなのだが、私は、彼の50年代から60年代の研究自体は、かなり度外れているとは言え、科学を進歩させる(可能性があった)正当な想像力の飛躍として認められるべきだと考える。しかし、その後に彼が取った態度はまったく弁護できない。すでに亡くなって(あるいは肉体を抜け出して異星文明に帰って)しまった彼を裁く法律はない*2が、彼は今日の状況に対して道義的責任を負っており、歴史の審判を受けねばならないだろう。(ちょっとイルカ好きが度を越したぐらいでそんな目に遭わなきゃならないとは、地球はなんとも物騒な星である。)

 本書の刊行以来、クジラ類の脳の構造が人間の脳に匹敵する大きさと複雑さを持つということは、多くの人に理解され、支持されるようになった。地球上には人間以外に、意識を持ち、自己を認識し、複雑で抽象的な思考をめぐらすことができる生物がいるという、この発見によって、あらゆる生物の頂点に立っているのは人間だけではないという考えが理解されるようになった。

 この特権的地位を占めているのは、人類だけだというこれまでの通説が覆されたのである。この理解が広がることで、旧来の人間中心の世界観は、根本から組み替えられることを余儀なくされた。それはちょうど、コペルニクスが新しい地球観を打ち出して、地球は宇宙の中心ではなく、きわめて特殊な衛星を持つ小型の天体なのだと主張したのと同じくらい、革新的なできごとだった。

 またきた。やもするとマッドサイエンティストの途方もない誇大妄想だと片づけてしまいそうになるところだ。しかし、あなたはそうとも言えないということをすでに学んでいるはずだ。これは第17回で見たような伝統的・キリスト教的動物観への反動と捉えなければならない。その意味でとても自然な発想であり、ある意味で確かに革新的なことなのだ。

 本書の主題はコミュニケーションである。そこで叙述の目的上、私はコミュニケーションを、二つもしくはそれ以上の知性のあいだで行われる情報の交換と定義した。そして、人間がイルカやクジラなどの古代から生き長らえてきた頭脳と充実したコミュニケーションを交わせるようになったとき、彼らとの意思の疎通がどのような成果がもたらすかを詳しく論じた。

 嘆かわしいことであるが、人間は海に棲むクジラ類にたいして、いまだに別のかたちの干渉や働きかけを行なっている。人類は海洋を汚染し、海洋の生態系を破壊している。そして最も恐るべきことに、人類は直接的であれ間接的であれ、意図的にさまざまな海生動物を絶滅に追いやっている。その結果、一九九二年だけで人間の捕鯨によって、一○○万頭以上のクジラ類が殺されているのである。隣人と争い、他の人類に戦争をしかけ、他の生物を情け容赦なく捕獲して絶滅させることで、人間は「コミュニケーション」という言葉の本来の意味を冒涜しているように思われる。

 もしかして(もしかしなくても)冒涜されている「コミュニケーション」という言葉の本来の意味ってのは前の段落で自分で定義したもののことなのかな。それにしても一〇〇万という数字はどこから出てきたのだろう?(一〇〇万だったら何なんだということはひとまず置くとして) 捕鯨だけでなく、漁網に絡まったりして死ぬイルカの類*3を全世界分合計しても、まだ足りない数だ。数の多さを表す飾り言葉である"million"の誤訳(「無数の」と訳すべきところ)という可能性も考えたが、はっきり「一九九二年だけで」と言っているところを見ると無理があると思う。正直私にはわかりかねる。

 私は、人間と同じように大型の脳を持ち、地球に住み、地球に生命を委ねているこのクジラ類という動物に新たな期待を寄せている。熱意に溢れ、進んだ意識を持つ数多くの人間がたゆまぬ努力を重ねて、無知の壁を取り払コミュニケーションの障壁を突破すれば、やがて人間とイルカは言葉を交わせるようになり、双方が地上での生活から得たさまざまな体験を共有し合えるようになるだろう。

 私は「クジラ類国家」の設立を構想している。クジラ類国家をつくって、代表の人間を国連に派遣し、この国家――地球の表面の七一パーセントを占める海である――の住民の主張を、正当なやり方で自由に表明させるのである。

 これも同じだ。子供じみたマンガチックな空想に見えるかもしれないが、第21回のあたりで見たような、長い人種差別の歴史に対する反動として捉えれば、そこまで突飛な発想とは言えなくなる。極端から極端に走ってしまうのは人間のもっとも基本的な弱点の一つだ。

 最後に本書を手にしてくれた日本の新しい世代の読者に、謹んでお礼申し上げるとともに、彼らがこの夢の対話の実現に取り組むことを心から歓迎したい。素晴らしい新世界を築くには、若い世代がこの、イルカとの対話という課題に取り組むことがぜひとも必要である。そしていつかわれわれは共通の夢を抱いたことを誇れるようになるだろう。また、いつの日かその夢が実現すれば、一層の誇りを感じることができるだろう。

 一九九四年三月三〇日 ハワイ、マウイにて   ジョン・C・リリー

 すまないが私にはお礼を言われる資格はないようだ。まだようやく序文が終わったところだが、いったんまとめよう。

 スティーブン・ジェイ・グールドのような人々が公民権運動で黒人差別を撤廃しようと戦っていたのとまさに同じ時に、なぜだか知らないが、自分たちは孤独だ、孤立していると感じ、シロイルカの白い肌に熱烈なキスをしている人々がいた。彼らは、西洋の伝統的な宗教観や社会哲学に批判的だった*4が、最初から西洋哲学の伝統から外れたところにいる人間の目から見ると、まだまだそこから抜け切れていないか、あるいは一回転して元に戻ってしまっているだけだった。

 もうしばらくリリー博士につきあうことを通じて、この「ねじれ」をもっとはっきり認識できるようになってもらいたい。この「ねじれ」こそがガイア教徒の全ての力の源であり、同時に彼らに限界を課しているもの、すなわちガイア教そのものであるからだ。(つづく)

*1:少なくとも私の絵よりうまい。
*2:そんなものがあるべきだとも思わない。
*3:言うまでもなく捕鯨とは比べものにならないほど多い。
*4:少なくとも本人はそう思っていたし、それは決して嘘というわけではない。

おまけ

 C・W・ニコルさん。この人だけは心底気の毒だ。

遠藤誉『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』

中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす (NB Online book)

 昔(中国ではないが)アジアの国に住んでいて、日本のサブカルチャーやその海賊版の浸透ぶりを肌で感じたことがあるのでこの話題には興味がある。読んでみたが、かなり面白かった。内容については下手に解説するより下の場所を読んでもらった方がいいだろう。無料登録してでも読む価値あると思う。

中国"動漫"新人類 (中国"動漫"新人類):NBonline(日経ビジネス オンライン)

おまけ

中島聡『おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由』

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書 55)

 会長の本が出ました。WEBからの再録も多く普段ブログを読んでいる人にはそう目新しいことでもないかもしれませんが、第三章の特別対談はどれもかなり面白かったです。

  • Part1 西村博之
  • Part2 古川享
  • Part3 梅田望夫

おまけ

 これは面白い。教育効果も高そう。早くもロケット作っちゃってる人たちまでいます。

ガイア教の天使クジラ26

イルカと話す日

 ではジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読むことにする。日本での出版は1994年だが、原著(Communication Between Man and Dolphin: The Possibilities of Talking With Other Species)は1978年の刊行であるので時代を意識する必要があるときは78年の方に脳内時計を合わせなければならないと注意しておく。*1

序言――シロイルカからの招待――  アントニエッタ・L・リリー

 数年前から、私はクジラとイルカに関するおびただしい量の情報に接してきた。セーブ・ホェール、グリーンピース、ドルフィン・エンバシーといったさまざまな組織がアメリカ全土に連絡網をめぐらせている。さまざまな地域の人びとが、この愉快な生き物に興味をいだき、イルカについての知識を深めたいと考えて、私の夫、ジョン・リリーのもとにやって来て助言と情報を求めてきた。というのも夫のジョン・リリーは、イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっていると最初に主張した人物だからだ。

 しょっぱなからメチャクチャ重要なポイントだよ! はてさて「人間並み」と言いつつ同時に「海生動物ならではの独特な形をとっている」というのは一体全体どういう意味なのだろう? 人間は海生動物だっただろうか? 火星人ならそう聞き返すだろう。さあ彼女は何を言わんとしているのか? これはある意味、この本全体を通じて一番重要な点である。あなたは読み終わる頃までには、この問いに答えられるようにならなければならない。今から考え始めておこう。スティーブン・ジェイ・グールドならなんて答えるだろうか?

 二〇年間にわたる独自の科学研究の末にリリーが得た結論は、すでに多くの人ぴとに知られている。人間はもはや知性を備えた唯一の生物ではない。イルカにも知性が備わっている。私は、サンディエゴの研究所で経験したある感動的な出来事によって、この事実を目の当たりにした。

 最近、私たち夫婦はヒューマン=ドルフィン・ファウンデーションを設立した――イルカとのコミュニケーションを推進するための新しい研究機関である。またそのいっぽうで、私は、個人的にもこの目標を達成したいと考えていた。私にとって、イルカとのコミュニケーションは現代における最も興味をそそる、重要な試みなのである。

 次の部分ひときわ振るってます。注目。

イルカと話す日3

 一頭のイルカが水から頭を出して、こちらを見つめた。私も相手の目をまっすぐに見つめた。突然、イルカが口から水を吹き出した。水鉄砲は私の顔と肩に命中し、ゆっくりと全身を濡らした。それは愛情あふれるふれあいだった――もっと親しくコミュニケーションをしようという誘いだった。それは、これまで人間から受けたどのようなアプローチよりも官能的な誘いだった。私は無意識に手で水をすくって口に含むと、そのイルカに水鉄砲のお返しをした。そのあと数分間の喜びは、書き留めてもおよそ意味をなさない。

 私はイルカの白い肌に手を触れ、キスできるようになった。これこそ私が体験したかったことなのだ。私は境界を越えて新たに開かれた世界に入り込み、充足感に満たされた。分かち合える世界を持とうというこのイルカの誘いは、生物同士を隔てている亀裂の彼方にかいま見える、ある世界のビジョンを私に授けてくれた……いつの日かすべての生物が一体化される時が来る……そこでは、かつて隔てられた生物たちが再びひとつにまとめられる、平和な楽園、「平和の王国」が実現する。生物は種ごとに孤立化し、その孤立を高めていく。やがてそこから生命の凝縮と拡散の過程が生まれ、思いもよらぬ形でクジラ類との一体化が起こる。

 しかと見よ、ガイア教徒に約束された千年王国の姿! いきなり「彼女は頭がおかしい」と片づけてしまいたくなった人もいるだろうが、さて彼女は頭がおかしいのか? いーや、ちっとも。仮に百歩譲っておかしいとしたって、信仰を持つキリスト教徒の誰よりもそんなに顕著におかしいとは言えない。私がここの記述で連想するのはイザヤ書の一節*2だ。彼女が(意識しているかどうかにかかわらず)このような伝統的イメージの影響を受けていないと考えるには特別な理由が必要だろう。私にはその理由は何も思いつかない。

 ……ところで、だ。こんなささやかな千年王国の到来すら邪魔しようとする奴らがいるよなあ? 他人んちの裏庭の海*3までわざわざやってきて、血まみれの口で「お前らの信じる天国など妄想だ! お前らの生は無意味で、終わりにあるのは虚無だけだ!」とゲラゲラあざ笑っている悪魔のような、いや、悪魔そのものの奴らがなああ? いったい誰だっけそんなけしからん奴らは? めっちゃ許せんよなあああ!?

 白いおばけたちは不思議なほど愛情がこまやかで、水中で悪戦苦闘している私を気遣ってくれた。彼らは、太古の冷たい海を泳いでいた私自身なのである。細胞が組織され、陸に上がってくる以前のはるか遠い過去に、私は海の住人であったのだ。彼らと過ごしたこの日、私は水中に住んでいたころの過去の自分を取り戻した。

 過去にさかのぼり、彼らとともに自分の起源についての新知識を語り合い、彼らと一緒に人間とクジラを長いあいだ隔ててきた壁を打ち破りたいと私は願っている。

 「細胞が組織され」「陸に上がってくる」に繋がる理由が全くわからんのだが、見てわかるようにいちいち突っこんでいたらきりがないのでやめる。しかし、これじゃあアクア説は、裏付ける証拠がいっさいなくてもあまりにも素敵なのでどんどん信じちゃいたくもなるってもんだよね。

序文  バージェス・メレディス

イルカと話す日2

 (前略)リリーの自宅の隣には、一部屋半の広さしかない小さな実験室がある。ここでは、一週間のうち五日間、アメリカとカナダのさまざまな地方からやって来た若い科学者たちが、リリーの指導を受けながら無報酬で働いている。彼らはソフトウェアとハードウェアとを連動させる仕事に取り組んでいた。また、ファウンデーションが購入したさまざまな種類のコンピュータやハイドロフォン、計算用の機器の調整、研究結果を使った科学的な実験の準備などの、より簡単な仕事も行なった。

 ファウンデーションで働く者は、選ばれてこの研究に参加しているという誇りを感じていた。ファウンデーションの研究は重要な進展を見せているという噂が流れ、実際に高い地位にある人びとが訪れてきた。

 コンピュータが激しく時代を感じさせてくれる。今日の社会から「大きな脳」に対する強迫観念が(「しっかり残っている」と言える程度までは)消滅してしまっているという事実も、我々が猛烈な勢いで小型化かつ高性能化するコンピュータを見ながら育ったという時代背景の間接的な記録に過ぎないのではないか? という思いつきが生じる。

 人間よりも大きな頭脳を持つ動物(地球においても他の惑星においても)とのコミュニケーションの達成には巨大な可能性が秘められており、現代の地球における「人間のかくも長き孤独」に終止符が打たれるとすれば、もちろん歴史的な大事件となるに違いなかった。

 つまるところ、私たちはクジラとイルカが絶滅する前に、彼らと話ができるようになろうと努力しているのである。ギリシャ悲劇のように、そこには凄まじい緊張感があり、どんな結果が出るかはまだ明らかではない。

(中略)

 故ジョン・スタインペックは『コルテスの海』の中でこう書いている。「人間は足元の潮だまりを見つめるべきである。ついで星を眺め、また再び潮だまりを見つめるべきなのである」。

 宇宙から海への神秘の移行は第12回でもちょっとだけ触れたが、どうも私の深読みし過ぎというだけでもないようだ。関連する時代背景としてはアポロ11号の月着陸は1969年。

 ジョン・リリーはこれと同じことを別の言い方で語っているのであり、私たちの多くが彼に惹きつけられるのも、彼のそうした主張によるものなのである。「人が心の中で真実だと感じるものには、最初から真実であるものと、しだいに真実となるものとがある。いずれの場合も、その真実には、一定の限度が設けられている。そしてこうした限度こそが理性では説明のつかない信念というものなのである」

 これが高度に悲惨な自虐的ギャグに聞こえるとしたら(私には聞こえる)、それは単に私たちがすでに結果を知った上で読んでいるからに過ぎないことに注意しなければならない。それを忘れて彼らを変人と笑うのは誰よりもまず私が許さぬ。

 現在の我々がイルカ・クジラが人間以上(というのが何を意味するのだろうかという疑問はひとまず置くとして)の知能を持っているとは考えないことに何らかの自信を持っているとすれば、そのことは、「かつて彼らのような立派な技術と知識を備えた大勢の人たちが“イルカ・クジラには人間以上の知能があるはずだ。あって欲しい。”という最大限の予断と偏見を持って臨み、それでも失敗した」という事実を知っている、という以外の何事をも意味しない。(つづく)

*1:個人的な話だが、私は1979年生まれなのでちょうど私が生まれた頃にあたることになる。
*2:「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」11:6〜9
*3:オーストラリア人から見ての感覚

おまけ

 キリスト教原理主義は反捕鯨とは関係ないというのはこの動画一つ見てもわかるだろう。宗教原理主義など信じていそうな保守的な人というのはどちらかというと、左派的なガイア教には懐疑的な人間だ。(もちろんこのおっさんが原理主義者だというわけではないが、どんな反捕鯨活動家よりもそちらに近いタイプの人間であることは論を待たない。)

ガイア教の天使クジラ25

(今日の一コマ)

 さて第二ラウンド開始である。これから4人のガイア教徒と対決していただくが、今度の相手はこれまでと違ってプロである。みな名だたる大学の博士であったり、権威的な科学者であったり、立派な団体の職員であったりする。みな実際に社会におけるイルカ・クジラのイメージを変えたり、反捕鯨運動に重要な役割を果たした人物ばかりである。

 彼らは、ガイア教のほんの上っ面を撫でただけのユリカさん(本人はそう言われるのは不満だろうが)や、テレビでの又聞きをたれ流しただけの第10回の男などとはわけが違う。第12回で読者の心胆を寒からしめたビクター・ケラハーさんですらも、(個人的には好きなのだが)彼らの前ではほんの下っ端にすぎないと認めざるを得ない。

 私があえてそのような雑魚に長い前置きの時間を費やすことを選んだことには、その方が面白いという構成上の理由以外にも、免疫をつけるという目的があった。それをダシにしてでも、どうしても先に文化人類学的思考と西洋思想史についての最低限の基礎知識を身につけておいてもらいたかったのである。

第13回に書いた、シーシェパードの件による順番変更でそうなったわけではない。あそこで飛ばされた文学作品が一つあるが、位置づけとしては『クジラの歌がきこえる』に近いものである。まだ紹介する価値はあると思っているので良い機会あれば息抜きに入れるかもしれない。)

 逆に言えば、その準備なしにいきなりここに突入した場合、読者が「やっぱりこいつらは頭がおかしい例外的な人間にすぎない」とあっさり片づけてしまったり、もしくは恐怖に耐えきれずに目と耳を塞いで逃げ出してしまったり、あるいはもっと悪くすれば……改宗させられてしまうことを危惧したのである。その危惧はまだ完全に消えたわけではない。この先を読み進めるにはしっかり覚悟を決めて、そのぐらい警戒してほしいということだ。

 では行くぞ。トップバッターは先に予告した通り、私が考えるガイア教史上最重要人物だ。一人で歴史上の3つの存在の大いなる連鎖全てに関わり、最初期のイルカ知能研究者であり、ニューエイジ文化の中枢に位置したグル(導師)であり、大衆の間でのイルカ・クジラのイメージを大きく変えたその男の名はジョン・カニンガム・リリーである。(つづく)

予習用資料

おまけ

 彼がモデルとなった映画。さすがに古すぎるせいもあって(普通の意味では)あまり面白くはないが、この1だけでも観ておくと時代の雰囲気が掴めていいかもしれない。

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